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泳ぐ女
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4.細川

なるみにとっては屈辱的だった、あのショーが終ってから神崎と接することはなかった。
社長という立場であるし、さすがに多忙なのだろう。
元々、めったに会える人ではないと聞かされていた。
なるみは安心したような、ちょっと残念なような…そんな気がしていた。
神崎はいつでもなるみに優しかったからだ。
(だけど、あんな事ばっかりされたら、…体がもたないもん…)
そのあたりの事は、神崎もよく理解していた。
あれ以来、『商品』であるなるみと関係を持つことはなかった。



細川が仕事の段取りをし、なるみは彼に送迎してもらう、という日々が過ぎていった。
「細川さん、たまにはお茶でも…飲んでいきませんか?」
なるみが帰り際に細川に声をかけた。
彼は少し考えて、答えた。
「…今日はやめておきます。あなたも疲れていると思いますし」
そしてなるみの気分を害さないように、笑顔を向けた。

(あ、この人のこういう顔…)

普段は無口でクールな細川が、時折見せる笑顔には威力があった。
『魅力的な男』というのは、こういう人の事かもしれない、となるみは思った。
「じゃあ、またお時間のある時にでも、寄ってください。
いつも送ってくれてありがとう、細川さん」
そしてまたなるみも男を魅了する魅力的な笑顔を返した。

(細川さんって不思議な人…)
なるみは思う。
(あたしの魅力も、通じないのかな?なーんて…)
自分自身の魅力が具体的にどうなのかはよく分からなかったが、今まで接してきた男性を魅了しているらしい、という事は自分でも感じていた。それなのに、細川はなるみに対してどこまでも冷静だった。

特別なお客だけを相手にするために、なるみが体で働いている間、細川が何をしているのかは知らなかった。
基本的に細川はなるみの店の仕事の方の面倒はあまりみない。
スケジュール管理のみだ。
その間、彼はなるみの側にはいない。
送迎だけをする日も多い。
彼が他の仕事をしている事は、なるみは何となく分かっていた。
ただ、詮索する気はなかった。
そして彼もなるみのプライベートな事や、仕事以外の事、過去の事などについてどうこう言ってくることもなかった。

(やっぱり、細川さん、ちょっとあたしと似てるな…)

なるみは細川と一緒にいる時間が心地良かった。
特に会話が弾む、という訳ではない。
「沈黙が心地よい」という感覚をはじめてなるみは味わっていた。
(包容力かなぁ…)
自分よりも年上で落ち着いた細川の態度に、いつしかなるみは惹かれ始めていた。これまでは、ガツガツと自分を求めてくるような男しか知らなかった。
(この前のイベント、細川さんいなくて良かった…)
あんなところを見られてたら、普通に仕事できなかったかもしれないな、となるみは思って心底ほっとした。



細川がなるみとともに仕事をし、2ヶ月がたったある日のこと、店でのマニアックな顧客が、なるみの中に無理やり異物を挿入した。スタッフが飛んできてすぐにその行為は終わったが、なるみは傷ついていた。


細川はマンションの部屋までなるみを送った。
初めて入る彼女の部屋。
「大丈夫ですか?」
「はい……。ちょっとまだ痛い感じがするけど……」
玄関で細川は立ち止まった。
なるみはそんな彼の腕を掴んだ。
「細川さん…」
なるみは細川を見上げた。
こうして並ぶと彼は、なるみよりだいぶ背が高い。
「なんですか?」
細川は優しい声で答えた。
「あの……もう少しだけ、…一緒にいてもらえませんか?」
なるみは動揺していた。
最近では仕事でもかなりチヤホヤされていたので、まさか自分がこんな怖い思いを顧客からさせられるなんて、考えた事もなかったのだ。
細川にもなるみが混乱しているのがよく分かった。
彼はこんなに不安そうな彼女を見るのは初めてだった。


玄関から入ると、廊下の突き当たりにガラスの入ったドアがあり、その向こうはリビングになっていた。
ベージュの絨毯の上に、寝転べそうなぐらいの低さの真っ白な皮のソファーがある。全体に目線の低い室内で、普段はここで彼女がくつろいでいるんだろう、と細川は想像した。

二人は黙ってソファーに座った。
低いソファーは、深く座ると沈み込んでしまう。
細川が彼女を見ると、なるみの手が少し震えていた。

「大丈夫か…?」
彼は思わず素で言ってしまう。
「………」
あまりに心細そうななるみの姿に、細川は何とかしてやりたい気持ちになってくる。どんな想いで、色々な男の相手をするのか、この美しい少女を可哀想に思う。
そして、自分は間接的にその行為の手伝いをしているのだ。
そう考えると、胸が痛んだ。

細川は黙ったまま、なるみの震える手をそっと握ってやった。
なるみは細川の方を見た。
その眼は潤んでいて、今にも涙が零れてしまうそうだった。
細川はなるみの手を自分の方へ引き寄せると、その震える指にそっとキスした。
なるみは驚いて彼を見る。
目線が合う。
細川はその可愛い唇にキスしたい気持ちを抑え、また指先に優しくキスをした。

「…細川、さん……」
なるみも、彼に唇にキスして欲しかった。
しかし彼女はセックスをしないキスをした事がない。
歪んだ人生の中、今まで誰とも恋人関係になった事がなかった。
心の奥を締め付けられるような切なさに、自分自身、戸惑っていた。
彼にキスされて、さっきまでの不安な気持ちが消えて、また別の感情が彼女の中に湧き上がってくる。なるみはどうしていいのか分からなくなり、別の不安で胸が一杯になってしまう。
彼に握られている指に、自然と力が入ってしまう。
細川もそれに気付き、なるみの方を見た。

戸惑いの色を隠し切れないなるみの表情に、細川は「まずかったかな」と一瞬思う。
しかし、そのまま彼女の手を握り続けた。
二人きりの部屋に、重い沈黙が広がる。

(あたし……どうしちゃったの……)
彼に触られた手から、甘い感覚が体に広がっていく。
それは性的な快感とは別のものだった。
(違うの…もっと……もっと…違う…)

ふと細川が沈黙を破った。
「少し、落ち着いてきた?」
丁寧語でない語り口調、優しい声がなるみの心をくすぐる。
「細川さん……」
「?」

(言えない…唇にもキスして欲しいなんて…そんな事…言えない…)

言葉を続けないなるみを見て、細川はまた彼女の指にキスした。
そんな彼の行動に、なるみはクラクラしてくる。
この時間がずっと続いて欲しくて…だけど今すぐにでも終わりにしたいような…。

(どうしよう…落ち着かないよ…自分じゃないみたい…)

なるみにとってただ一つ確かなのは、この手を離さないでいて欲しかった事だ。
(細川さん…)
言葉にできないもどかしさと切なさで、とうとう涙がなるみの頬を伝って落ちていく。
細川はその涙は安心感から出たものだと思った。
そして空いている方の腕で、なるみの流れた涙を拭ってやる。
「いいよ…。もう、心配ないから……」
細川は今まで見せた事のない優しい表情で、なるみを見つめた。
なるみは思いがけず自分の中から出てきた感情に、何が何だか分からず、いっそ抱いてくれればいいのにと思ってしまう。そして改めて、自分の体が傷ついているのを思い出す。
怖くて、説明のできない悲しい気持ちがこみ上げてくる。
「……もし、あたしが…セックスの出来ない体になったら
…どうしたらいい…?…もう、お仕事出来なくなっちゃうよ…?
そうしたら、あたし…もう誰からも必要とされなくなる…?」
ふと、口をついて出てしまう。

(ああ、あたし、何を言ってるんだろう…)

細川の瞳が曇る。
「そんな事ないよ……なるみ……」
子どもに諭すように、彼は言った。
そして眼鏡を外した。
彼のなるみの涙を拭っていた指が、彼女の小さいあごへ移動する。

それは一瞬のことだった。


細川は、なるみの唇にキスをした。

握っていた手は、なるみの背中に回されていた。
優しく熱いキスを、なるみは自分でも信じられない程不器用に、ただ受けとめていた。
唇が離れ、細川はなるみをじっと見つめた。
彼はなるみの涙をもう一度拭ってやりながら、頬にキスした。

なるみは目を閉じて、静かにキスを受けた。


再び唇が重なり、なるみも細川の首に腕をまわした。
彼女の背にまわされていた彼の腕にも力が入る。
「そんな風に思うな……。そんな風に考えるのは、よせ」
抱き合いながら、細川はなるみに言った。
「うん……ん……」
なるみはなぜか涙が止まらなかった。
今までのどんなセックスよりも、たった今のキスの喜びが体の中から湧き上がってくる。

「…もう大丈夫だな…?」
「はい、…すみませんでした…」
玄関口に立つ細川をなるみは見送る。
「それじゃ、体、ゆっくりしておいてください」
細川はいつもの彼に戻っていた。

「おやすみなさい…」

もっと、ずっと一緒にいたい…。

なるみは自分自身の、そんな感情に驚いていた。
 

   

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