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 LET THERE BE LOVE
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8.兆し

「ありがとう、これ」

授業が終わった後、駐車場の側で紗羽は待っていた。
彼女が手にしていたのは、今朝渡した鍵だった。
「いいよ、返さなくても」
「でも……」
紗羽は困ったように周りを見渡して、ため息をつくとまたオレを真っ直ぐ見つめてきた。
「だって…、私が持っていたらまずいんじゃないかと思って」
「?…何もまずい事なんてないけど?」
「蓮城くんも……色々ありそうだし…」
普段ハッキリ話す彼女が、珍しく言葉を濁している。
いつもならすぐにピンとくるはずが、最近そういう事がないせいで理解するのにしばらくかかってしまった。
「ああ、大丈夫。他の子はうちには来ないよ」
「………」
図星だったのか、紗羽の視線が揺れる。
「それに、鍵なんて誰にも渡したことなんてないしさ」
オレはつい触りたくなって、紗羽の顔に手を伸ばした。
彼女の頬はいつも冷たい。
「……そんな、私のこと信用しちゃっていいの?」
「うん、紗羽の好きにしてくれたらいいよ。だから鍵は持っててよ」
「…………」
紗羽はまだ迷っている。
オレは彼女を引き寄せると、キスしようと顔を傾けた。

「ちょっと、…何?」

紗羽は驚いて体を引く。
「持っていかないと、今度は教室でキスするぜ」
「………もう……」
あきれてそう言う彼女は、少し照れている。
紗羽のそんな表情を見るのが、最近楽しくて仕方が無かった。

「分かったから!じゃあ、またね…」

急ぎ足で校舎へと戻る紗羽の背中を見送りながら、オレはちょっとニヤニヤして自分の車へ向かった。
電話をしようと、携帯を開いて通話履歴を見ていた時だった。

「トオル」
「ああ…、
麻璃ちゃん」

オレは顔を上げた。
駐車スペースを仕切る植栽の方から、歩いてきたのは麻璃だった。
昨日は教室で他の女たちと、下らない話でオレを引き止めていたヤツだ。
黒いままの髪を後ろで束ねて毛先を巻いて、ブランド物で身を固めている。

「今度は桧垣さんに手を出してるんだ」
紗羽が去って行った方を見ながら、麻璃は歪んだ笑いを浮かべる。
「『紗羽』って名前なんだね。珍しく呼び捨てにしてるじゃん
…トオルって、ああいう真面目な子には興味がないのかと思ってたけど」
「麻璃ちゃんには関係ないよ」
オレが干渉される事を嫌うというのは、麻璃も知っている筈だ。
「まあ、いいけどね。…ねえ、今日時間あったら付き合ってよ」
「今日は約束があるんだよ」
それは嘘だったが、これから友人に連絡をしようとしていたところだ。
久しぶりに男同士で飲みたい気分だった。

「ふうん…」
「麻璃ちゃん、また彼氏と喧嘩したんだろ」
「別にいいでしょ」

麻璃は本命の彼氏がいる。
その彼氏に少し飽きた時や、上手くいっていない時、オレを呼び出してくる。
逆に、オレの方から呼びつける時もあった。
割り切った関係で、これまではそこそこうまくやっていた。
「会えそうになったら、オレから連絡するよ」
開きっぱなしの携帯の画面が、明かりを落とした。
「あんたの連絡なんて待ってたら、ずっと来ないかもしれないでしょ」
バッグを持つ手を変えながら、麻璃はムっとして言う。
オレは一旦携帯を閉じて、車のキーを手にした。

「そうなったらそうなったで、悪いな」

ピピッと、ロックが解除される音が駐車場に響く。
麻璃の様子を無視して、オレは運転席のドアを開けた。

「彼氏と早く仲直りしろよ」

「もう、あんたってヒドイ男!」
後ろで麻璃が言った。
男に対してそんな台詞をしょっちゅう吐くような女だ。
「……お前もだろ」
釈然としない様子の麻璃に笑顔を向けて、オレは駐車場を後にした。



「女癖が悪すぎる」と、人からよく言われる。
特定の彼女を作ろうと思った事もない。
見栄えがよくてヤラせてくれて、感度がよくて、オレに干渉して来ない女がベストだった。
一緒にいる時優しくしてしまうせいで、女絡みのモメ事は頻繁に起きた。
それでも相手に対して絶対的優位に立ってしまえば、問題は収まった。
関わりたくないと相手に思わせる程、オレは女に対して冷酷な一面があった。

「ヒドイ男、か……」

実際そのとおりだ。
しかし現実にオレの事をよく理解していない奴は、オレを良い人間だと勘違いする。
ありがたいことに、大抵のヤツはそうだ。
―― 紗羽だけだ。 オレにあんな視線を向けてきたのは。
射抜かれるような嫌な感覚。
それなのに、今、オレが彼女に抱く気持ちは何だ。

路肩に車を停め、やっと電話をかける。
相手はすぐに捕まり、今夜飲む約束をした。


「この前のドタキャン以来だな、トオル」

「それは毎回お互い様だろ」
一度家に戻ったオレは電車で先に来ていて、既にビールを半分空けていた。
黒い木目で揃えられた店内は 白い照明がところどころに配置され、飾り過ぎないカジュアルな空間を醸し出している。
男同士で飲むにしても、居酒屋とは違った良い雰囲気があって、ここによく来ていた。

「新しい女でもできたか」
最近髪をバッサリ切ったアキラがオレの隣に座る。
でかいカバンをその隣の席に無造作に置いた。
「すごい荷物だな」
オレはチラっと見て言った。
「来週からまた臨床実習でさ、色々持って帰ってきた」
「そうか…しんどいな」
「お前だってまたすぐ始まるだろう」
アキラは店員に手振りでビールを注文する。

「タバコ、やめたいんだけどな」
そう言いつつ、アキラはライターに手を伸ばした。
「実習で長いこと吸えないと、イライラしてくるし」
「そうだな」
オレはタバコの銘柄にこだわりを持っていない。
一息吸って、白い煙を吐いた。
喫煙できる席が多いのも、この店を気に入っているところの一つだった。

アキラはオレと違って年中色々なスポーツをしていて、そろそろ冬だというこの時期でも日焼けしていた。
はっきりした顔だちに、背が高くガタイのいい体つきで、どこから見ても男らしい男だ。
「何か、いい事でもあったか?」
オレの顔をじっと見ながら、奴がニヤニヤして言った。
「何で?」
「お前の雰囲気がさ」
アキラは鋭い。

(いい事……)

最近変わった事と言えば、唯一、紗羽の存在だけだ。

「まあ、悪いことじゃねえな」
オレはアキラから視線をそらし、カウンターの奥を見た。
美しく並べられた酒瓶が、白いライトを反射してキラキラしている。
「へえ、トオルが…珍しいな」
アキラが白い歯を見せた。

それから、オレたちは他愛もない雑談をした。

悪い事ばかりやっていた数年前、アキラとは長い時間一緒に過ごした。
ある女の事がきっかけで、アキラの性格は随分変わった。
それを機に、オレ自身もそれまでしていたような、幼い欲望にまかせるだけの行動はできるだけ控えるようにした。
それでも人間がそう変わるわけじゃない。
分かっていた事だ。

アキラのように、誰かを心から愛する事なんてオレにはきっとできない。
そんな事を想像するたびに、それは酷く現実離れしているような気がした。
遊んでいる女とレイプまがいのセックスをするほうが、オレにとっては現実的だった。

「どうやったら、あんなに細かく氷が砕ける?」

細かく砕かれた氷が入った水割りを飲みながら、オレは言った。
「丁寧に縁からやるんだよ。お前、オレより器用だろ」
アキラは笑った。
「お前の方が根性あるからな…」
グラスを持つとシャリっと音がする。
今夜、紗羽は来ない。
それを寂しいと思った。


実際、どんなトラウマが彼女にあるのかは分からない。
それがどんなものなのか、知りたいとも思わなかった。
誰もが多かれ少なかれ抱えている闇を、穿り出して共有する気なんてさらさら起きない。
……ただ、彼女といると良かった。
(何が……)
空気なのか? 雰囲気なのか?
理屈じゃなく、ストンと胸に落ちてくる存在感。
(何故だ………)

好きにならないように構える。
好きになるために、構える。

そんな理屈をすっ飛ばしていた。

―― オレは冷たい人間だ。
実際、本当にそうだ。
誰かに優しくしているようで、実のところ思いやりなんてこれっぽっちも持っていない。
でもそれでよかった。
誰しもが、表面的な調和を求めている。
オレはその期待に応えながら、時折気持ちの赴くままに裏で外れる。
ロクな人間じゃない。

(だけど………)


アキラと分かれて、オレはタクシーを拾って部屋に戻った。
高層マンションだから窓は開けられない。
オレは部屋の電気を消して、下に見える街の明かりを見た。
あいつの事が気になり出してそしてこんな関係になってから、まだそんなに日が経っていない。
タバコに火を点ける。
吸ってなお光る、その小さな赤。
吐き出した息の先、誰もいない空間。

オレは携帯を手にした。
すぐに聞こえる、昨晩ここにあった声。


「紗羽……? 明日、来いよ」

感覚が全てだと言うのなら、感情の向かう方向は自ずと見えてしまう。


――― 会いたかった。
できることなら、今すぐにでも。

 

   

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