泳ぐ女 STORY Message LINK

 LET THERE BE LOVE
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4.瞳

蓮城への電話を切り、私は大きくため息をついた。

養父と顔を合わせるのが嫌で、私は逃げたかった。
家を出ることができたなら、どんなに楽かと思う。
しかし私は縛られていた。
二度、この家を出たいと口にしたがどちらも養父から却下された。
私は養父によって文字通り養われ、そしてその恩恵に母もあやかっていた。
脳外科医である養父は、私が中学2年の冬、母と再婚したのだ。
その分野ではかなりの実力者のようだった。
独裁的なその態度は実力が伴えば強力なリーダーシップとなり、周囲の人々の尊敬の念を得る。
家の中での彼は、ただその独善的な一面ばかりが強調されていた。
母はなぜ養父を選び、養父はなぜ母を選んだのだろう。
はっきりと分かっている事は、そこに愛情などないということだけだ。
おそらく何らかの利害関係が一致したのであろう。
人を表と裏で例えるならば、彼らは裏の感情で繋がっている関係なのだ。
そして、幼かった私自身もそれに巻き込まれた。
家庭は安住の場所ではなく、外の世界と仕切られた裏の顔を隠す場所になっていた。

今となっては、私に何の勇気もない。
抜け殻のようになった私は、皮肉なことに養父の跡を継ぐように医者になろうとしている。
そして実際の血の繋がりがないというのに、私自身医師への適性を感じていた。


「………ふっ…」
あきらめにも似たため息が、再び漏れる。

車椅子から見上げてくる養父の強い視線は、私の自由を奪う。
神と悪魔が混在したような存在。
離れたくて仕方がないのに、纏わりつく黒い気配。



「連絡してくれて嬉しいよ」

蓮城は相変わらず誰しもを魅了するような懐っこい笑顔で迎えてくれた。
地下鉄の出口を上がり坂道を少し入った高層マンションに彼は住んでいる。
マンションの下まで蓮城は降りてきてくれていた。

男にどんな下心があろうとも、そこに行き着くまでの一見親切にすら見える善良な態度を完全に否定するのはナンセンスだ。
今の状況に関して言えば、完全に私の都合に彼をつき合わせていることになる。
嫌な顔をせずむしろ歓迎してくれている蓮城に対して、今は感謝の気持ちさえ感じていた。
「突然電話して…ごめんなさい」
私は素直な気持ちで言った。
「いいよ、嬉しいよ。正直、電話くれるの待ってたから」
まるで好きな人に告白するかのような彼の言葉。
おそらく、彼は『普通』でこうなのだ。
それがよく分かっているから、私は勘違いして浮かれる事もなく、逆に安心して蓮城に接することができる。
ほんの少し前に抱いていた感情との大きな変化に、自分でも少し戸惑っていた。

「買い物してさ、うちで晩御飯食べようぜ」
「…うん」

私は黙って蓮城の後について歩いた。
住宅街を抜けたところに、高級嗜好のスーパーがある。
そこへ二人で入った。
先日に引き続き、またこうして二人で買い物をしているのが何だか可笑しい。
恋人同士というわけでもないのに、私たちは食材売り場をひとしきり巡る。
まるで若い夫婦のようだ。

私が払うと言うのを遮り、支払いは全て彼が行った。
何か出来合いのものを買って帰るのかと思っていたのに、どうやら彼が料理するらしい。
「去年、一時すげえ料理にハマってさ」
「そうなの…?」
「オレ、しばらくずっと一人暮らしだったし、さすがに外食にも飽きてきて」
「付き合ってる子に作ってもらえば良かったじゃない」
無意識に、思っているままを口にしていた。
嫌味っぽく聞こえなければいいなと思った。
しかし蓮城はまるで気にしていない様子で、答える。
「オレに寄ってくるような子が、料理なんてできると思う?」
そして笑った。
「………」
やっぱり変な事を言ってしまった。
私がそう思っている間にも、彼は手際よく購入した食材やらを並べていき、キッチンで手を洗い始めた。
「オレがやるから、桧垣さんはその辺でくつろいでいて」
「手伝おうか…?」
「ううん、オレ、一人でやるのが好きだから」
対面のカウンター越しに、蓮城は黙々と作業を始めてしまう。

「………」

知らない男の部屋。
勿論知人ではあるが、私は彼のことをやはり知らない。
ソファーに腰をおとして、美しい光を放つ黒い革を触った。
恐らく色んな女の子を連れ込んでいるであろうこの部屋。
その割には、あまり生活観が感じられなかった。
こぎれいにし過ぎていて、まるでどこかの店に来ているような気さえした。
彼の神経質な性格が分かる。


「うわ…美味しそうね」

テーブルのセッティングまで全て彼が行い、並べられた料理はパスタとサラダ。
それも、イタリアンレストランのような出来栄えだ。
「腹減った。早速食おう」
キッチンの入り口にあるワインクーラーを開けて、蓮城は白を一本持ってくる。
(女から見れば、本当に夢のような男…)
恵まれた容姿と経済力、それにこのサービス精神。
普通の女の子なら、この状況で彼を気に入らないはずがない。
(だけど……)
時折垣間見える彼の冷たい部分。
クールというのとも違う、もっと「無」に近いような……

「何考えてるんだよ?」

蓮城が私の顔を覗き込んでいた。
「ごめんごめん、ボーっとしちゃって……あんまり現実的じゃないから」
そう言って私は笑顔を取り繕った。
確かに現実的ではなかった。
何よりも、私が彼とこうしているのが変だ。

「この前、新鮮なウニを買ってきてさ」
「うん」
「ウニクリームパスタ、作ってみたんだけど…オレ寿司でウニってあんまり好きじゃないんだけど、それはすごいウマかった」
「へえ…それもすごく美味しそう」
今日は魚介類が入ったトマトのパスタだった。
ホール缶だけではなく、生のトマトも使っている。
魚介類の火の通り方も、絶妙で美味しくできていた。
授業で動物を使った解剖など、彼はとても手際よく美しく行っていた。
手先の器用な彼が、料理も上手だというのはすごく頷けた。
「だけど、この前店で食べたらさ、ウニが不味くて……やっぱ買った方が食材がいいよな」
「ふふ」
無邪気に話す蓮城に合わせて、私も笑顔で答える。
その後も、他愛のない世間話をした。

今夜、どうしてここへ来る気になったのかを、彼は聞いてこない。
触れられた時、私が固まってしまうことについても、彼は聞いてこなかった。

他人に入り込んで来ようとしない彼。
私にとっては何よりもそれはありがたい事だった。


「突然来たのに、こんなにして貰っちゃってありがとう」
「いいよ、全然。楽しいし」
相変わらずそういう事をさらっと言う。
「洗い物ぐらい、するわよ?」
立ち上がろうとした私を、彼は引き止める。
「いいよ、オレ、全部自分でやらないと気がすまない性質だから」
「…そう?」
彼の言う事は分かる。
私だって自分の空間があったら、あんまり他人に触れられる事を快く思わないだろう。
私は彼に任せる事にして、ソファーに戻った。

ひととおり片付け終わると、蓮城は私の隣に腰をおろした。
何となく沈黙が嫌で、私は彼に話しかける。
「蓮城くんは……」
「あ、そうだ」
私が言いかけたところで、彼が言葉を挟む。
「オレ、普段あんまりそう呼ばれないんだ。……名前で呼んでよ」
「名前…」
他人を呼称するときに、私は呼び捨てで名前を呼ぶことはない。
いきなり名前で呼ぶ事に違和感を感じて、私は少し迷う。
「もしかして、オレの名前知らないとか?」
「知ってるわよ、……蓮城、透でしょ」
「そうそう…知り合いは大体、オレの事トオルって呼ぶしさ」

(トオル……)

じっと蓮城の顔を見た。
やっぱり違和感を感じてしまう。
「蓮城くんは、蓮城くんが呼びやすいわ…」
私は素直にそう言った。

「そっか……まあ、それも新鮮でいいか。で、『桧垣さん』ってのは…」
「………」
「こっちは名前で呼んでもいい?」
(名前で……)
一気に縮まりそうな距離感に、私は戸惑う。
しかし、それも表面的なことだ。
「別に、好きなように呼んで」
「『紗羽ちゃん』……」
「………」
「オレ、女の子の名前呼び捨てにするの苦手なんだよな」
「そうなんだ」
軽そうな彼にしては、意外な一言だった。
「でも……『紗羽ちゃん』って桧垣さんっぽくないな」
「……そうかしら」
確かにちゃん付けってガラじゃないけれど、と私は思う。

「紗羽、って呼んでいい?」

「…別にいいわよ」
私が他人の名前を呼び捨てで口にするのを嫌がるように、私の名前を呼び捨てにする人間もほとんどいない。
家族以外の知人で、現在そう呼ぶ人はまずいなかった。

「で、ごめん、さっき何か話しかけてなかったっけ?」
蓮城は優しい笑顔を私に向けた。
「あ……私、突然ここに来ちゃったけど……、今日用事とかあったんじゃない?」
「あったけど、友達と会うぐらいだったから…
オレとの用事がなくなったから、そいつも彼女と今頃会ってるんじゃないかな?」
男友達の約束だとわかって、ほっとする反面、もっと申し訳ない気がしてくる。
「ごめんね…」
「いいって、全然」
彼の表情は変わらない。
先日、「付き合ってみないか」と言われた事が何となく引っかかっていた。
こうしているだけでも、トラブルに巻き込まれる様な事があるのも面倒で、私は思いきって聞いてみる。

「蓮城くんは、今付き合ってる子っていないの?」
「付き合ってる子?」
「うん……」

彼はゆっくりと体の向きを変えた。
「紗羽と、付き合ってみたいと思ってるんだけど」
「………」
私は一瞬言葉に詰まり、眉間に皺をよせた。
彼の真意が分からない。
「………蓮城くんの言う『付き合う』って……どういう事?」
体を求めれば私の反応がなくなる事を、彼はもう知っている。
女として付き合うには、『私』はあまりにも退屈なはずだ。

「じゃあ聞くけど、紗羽は『付き合う』ってどういう事だと思う?」

蓮城は真面目な顔でこちらを見た。
そして続けて言う。
「食事してエッチして、電話で話したり連絡を取ったり……それが付き合うって事?」
「……一般的にはそうじゃないの?」
私は答えた。
蓮城は諦めにも似た笑みを浮かべ、言った。
「おかしいよな、『付き合ってる人』がいるくせに、オレとそうしたがる女の子って結構いるぜ」
「………」
きっとそうなんだろう、と私は思う。
彼の立場からすれば、周りの女に不信感を持ってしまっても仕方がないのかもしれない。
返事に困っていると、蓮城が口を開く。

「分かんないよな、男と女なんてさ」
「………」
「少なくとも、オレはよく分からない」
「蓮城くん……」

「紗羽だって、そうだろ………分かるよ」
「……?」
突然自分に振られて、私は身構えた。
「オレみたいに好きでもない男に、平気で抱かれようとしてた」
確かにそうかもしれない。
私にとってのセックスも、それはただのそういった行為でしかなかった。
「セックスしたら、イコール付き合ってるなんて、単純に…オレも思えない」
蓮城の言葉に心で頷いてしまう。
つかみどころのないこの男の言っている事に、私は共感していた。


「オレも男だから生理的にやりたい時って結構あるけどさ……」
ソファーに体を沈めて、彼は足を組み直す。
「…セックスしたから何かが変わるなんて、全然思えないんだけど」
「ホント言うと私も……」
彼の前で本音を言ってしまう自分が信じられなかった。
「よく分からないわ…」

「………」
しばらくお互い黙ったままで、ふと顔を上げると蓮城もじっと私を見ていた。
言葉が浮かばなくて、しばらく見詰め合ってしまう。

(………)

静かに蓮城が近づいてくる。
唇が、私の唇に当てられる。
その様子をやっぱり私はしっかりと見ていて、そしてそんな私の目を彼もまた見ていた。

唇を離して、蓮城が私の名を呼ぶ。

「紗羽」

「何?蓮城くん」

「よく分からないけど、もっと君のことが知りたい」
「……」
「何となくだけど、もっと一緒にいてみたい」
まだ唇が触れそうなほどの彼との距離。
心で頷くのと同時に、私は言葉にもしていた。
「………そうね……」

少し体を離して、彼は私の髪を触る。
「……紗羽、お願いがあるんだ」
「何?蓮城くん」
私は無表情のまま、先ほどと同じ言葉を繰り返す。
そんな私の事を、彼はもっと深く見つめてくる。

「目、閉じてよ」
「………」


「目を閉じたら、見えてくるものもあるかもよ」

彼のその一言には何故か説得力があって、私も、そうかもしれないと思う。


彼の前で、初めてキスを受けるために目を閉じる。
私の固い唇が、彼の柔らかい感触を感じた。

彼のこの感触は、嫌じゃない。


私が初めて好きになる男が、もし蓮城だったら。
それはそれで、運命なのかもしれないと、漠然と考えながらも私は納得していた。
理由は分からないけれど、私も、彼ともっと一緒にいたいと思い始めていた。

 

   

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