入り口から廊下を抜けると、黒いカウンターで仕切られた広いリビングから都内の夜景が見渡せた。
彼らしい、贅沢なマンション。
背後に視線をやると、リビングから一続きになった奥の場所に大きなベットがある。
広いけれどワンルーム、まるで高級ホテルのような作り。
ウォールナッツ色の濃い茶色の壁に、配置されている黒い家具がより一層お洒落な雰囲気を醸し出していた。
「何か飲む?…それともすぐにシャワー浴びる?」
私の荷物を黒い革のソファーに置くと、彼はにっこりとこちらへ振り向いた。
「シャワー……」
改めて自分が何をしに来たのかを実感する。
それと同時に、シャワーを浴びて彼とこれから行うやりとりにかかる時間を考えた。
「……!」
時計を見るともうすぐ10時だった。
半分意地悪な期待をしつつ、彼の言葉に乗ってついここまで来てしまったけれど、時間の感覚がすっかり頭から抜けていた。
「あ、あの……」
思わず懇願するような声を出してしまう。
「?」
私の反応が時計を見てから明らかに変わったのを、勘のいい彼は察知する。
「ここまで来て、どうこうとか言うんじゃなくて……時間が…」
日付が変わるまでに家に帰らないと、家族から強く責められてしまう。
「門限とかあるの?……厳しそうだもんな、桧垣さんのとこ」
「うん……」
私は頷いた。
「……送っていくよ?さっきも言ったけどさ、別に無理やり襲おうなんて気はないから」
彼は笑った。
そしてカウンターに置いた車のキーを、また持ち直す。
「………」
少しの間、私は考えた。
蓮城にやられるとかやられないとか、実際のところそんな事は大して私にとって重要ではなかった。
「あの……、蓮城くんがもし良かったらだけど……」
「うん?」
「その……、と、…泊めてもらえる?」
思い切って言った。
こんな状況で、自分でも間の抜けたお願いだと思う。
客観的に見れば、自ら彼の懐に更に入り込もうとしているのだ。
「え?…オレは別にいいけど?」
「ごめんね……、どっちにしても門限が過ぎちゃいそうだし…
…それなら泊めてもらった方が……」
「いいよいいよ、明日1限から一緒だっけ?オレは別に構わないぜ」
「ごめん……ありがとう」
「なんだか変な展開だな」
彼は堪えられないといった感じでクックッと笑った。
(………)
家に帰りたくなかった。
口実を作って、できる限り家に寄り付きたくなかった。
だから勉強もできるだけ学校でしていた。
友人達はそれを不審がるどころか、「真面目な子」だと勝手に解釈してくれている。
家に帰るよりも、得体の知れないこの男と一晩過ごす方がずっとマシだ。
「服とか、どうする?明日一回家に帰るの?」
「………」
1限に間に合うように一旦家に朝帰りするのも気が引けた。
私が言葉に詰まっていると、蓮城は言った。
「すぐ側に24時間営業のスーパーがあるぜ、とりあえずだったら、そこに買い物行く?」
「……そうするわ」
蓮城が言うように、おかしな展開だった。
あんなに警戒していたこの男と、夜中に私はスーパーで買い物をしている。
「ついでに飲物補充」
彼も普通に日用品を買っていた。
「女物のパジャマ、封切ってないやつがあるから」
とりあえず私は明日着るためのTシャツを買った。
手早く買い物を済ませ、すぐにまた彼の部屋へと戻る。
「とりあえずシャワー浴びておいでよ?それか、一緒に入る?」
蓮城はニヤニヤしながら私の様子を伺う。
私はそんな彼に辟易する。
「先……行くわよ」
見知らぬ場所で服を脱ぐという違和感が、なんだか可笑しい。
それもよりによって蓮城のところで。
長い髪を濡らさないようにまとめ、素早くシャワーを浴びた。
部屋に用意されていた女物の新品のシルクのパジャマで、彼の普段の行動が分かる。
それを今着る気にはなれなくて、私は着てきた服をまた着て出て行く。
蓮城はカウンターで氷を出していた。
「なあ、桧垣さんって飲めるの?」
「…たぶん、飲める」
酔っ払った事がないから、多分強いのだろう。
「じゃあ、そっち座ってよ」
彼はソファーを指差した。
机の上には蓮城がさっき買ってきたサンドウィッチが美しい大皿の上に並べられていた。
「オレ、腹減っちゃってさ」
「ご飯食べてなかったの?」
彼の言うとおりソファーに腰をかけて、私は改めて蓮城をカウンター越しに見た。
「だから、さっきメシ誘ったじゃん」
氷を削ろうと、蓮城はアイスピックと格闘していた。
そもそもアイスピックを自分の家に持っているのが現実離れしているような気がして、何だか滑稽に思えてくる。
「あー、ダメだ。オレの友達がこういうのすげー上手でさ…まあ適当でいいよな」
まあまあ細かく砕かれた沢山の氷の入ったグラスに、ウイスキーらしい液体を彼は注いでいく。
その1つを私に持ってきた。
「それ、結構美味しいと思うよ?親友が持ってきてくれたヤツだから」
表面的に繕うばかりの日々を想像していたから、彼の口から『親友』という言葉が出たのは意外だった。
私は一口、それを飲んだ。
氷が細かくされているので、ロックとはまた違った味わい、勿論水割りでもない。
「美味しいね」
「だろ?」
彼も私の隣に座った。
足を組んで、すぐに姿勢を崩す。
先ほど学校であんなに険悪な雰囲気だったとは思えないほど、二人とも不思議とリラックスしていた。
彼自身の持つ、独特の特性なのかもしれない。
側に来る人を油断させるような、柔らかい気配。
普段の彼がそうだから、あの冷たい表情が余計に恐ろしく思えてしまう。
「………」
唐突にキスされた。
「なあ、」
「何?」
特に表情も変えずに、私は答える。
「さっきも思ったんだけどさ、バッチリ目を開けてるよな」
「ああ……」
そう言われてみればそうかもと思う。
そもそも好きな男と濃密なキスなんて、経験がない。
「なんでオレについて来たの?」
蓮城の頬が少し赤い。
「なんで…って、『自信がある』って、あなた言ってたじゃない」
二人並んでこうしていると、学校でのやり取りがとても馬鹿げて思えた。
「ああ……、言ったよね」
そう呟いて、思い出したように蓮城は笑う。
ふと笑いが途切れると、彼は私を見た。
あの、奥に潜む冷たさを垣間見せて。
「だけど全然その気なさそうじゃん」
「………」
彼には見透かされているような気がした。
私の中の乾いた部分と彼の中の冷たい部分が共鳴して、全然知らない人間だというのに直感が重なる。
「こんなに可愛いのに」
意外な一言に私はちょっと驚いて彼を見た。
蓮城は私の髪の先を指で触る。
「……なあ、なんでオレの事見てたの?」
「………見てないわよ」
それがウソだという事が分かっていても、そう答えてしまう。
「ふうん……」
また彼が例の表情をチラリと見せて、一瞬私に視線を投げた。
追い詰められていくような気がして私はドキドキしてくる。
嫌な緊張が走る。
彼のこの目が嫌だった。
優しい笑顔のまま蝶の羽を引き裂くことのできるような、そんな冷酷さを感じる目。
「そんな目で見られてたら、気になるだろ?」
「えっ?」
一瞬何を言われたのか理解できなかった。
私の考えが彼に被っているような、おかしな感覚だった。
彼は真顔で続けた。
「もしかして、霊能者かなんかで、」
「は?」
「何か見えてるとか?」
「ええ??」
素っ頓狂な事を言われて一瞬戸惑ったけれど、彼が真面目に言っていたから次の瞬間可笑しくてたまらなくなる。
「笑うなよ………冗談だし……半分」
「だって………それに、半分って」
お酒のせいか更に顔を赤くしている彼がおかしくて、私は余計に笑いが止まらなくなる。
「…………」
彼の手が伸びてくる。
私の手を掴んだ。
「なんだよ、笑ってる方が全然いいじゃん」
蓮城はそのまま立ち上がり、私を引っ張る。
向かう先は……分かってる。
ベッドに押し倒され、キスされた。
私はスイッチを切った人形のように、そのまま無反応になる。
「やっぱり、目、開いてる」
「うん……」
否定もせずに、ただ彼を見た。
彼もまた、欲情しているというのとはまた違う表情だった。
彼の手が私の胸元へ伸びる。
着ていたブラウスのボタンが、外されていく。
私は、そこで目を閉じる。
彼の指の動きも、私の感覚に届かない。
おそらく完全に肌蹴ているであろう胸。
捲くり上ったスカートへと伸ばされる彼の手。
ショーツの中に指が入ってきたな、と漠然と意識の端で思う。
だけどどうでも良かった。
これから彼が私に何をしようとも。
「なあ、なあ…」
彼に肩を揺らされて、私はハっと目を開けた。
「……寝ちゃってるのかと思った」
「寝てないわよ」
それでもまるで寝起きのような反応だったと思う。
「やっぱり、桧垣さん全然その気ないじゃん」
「………でも、良くさせてくれるんじゃないの?」
私は睨むように彼を見た。
「本気でそんな事、考えてないだろう?」
蓮城は肘をついて私の横に体を移し、肌蹴た私の胸元を右手で直しながら言った。
「………」
図星すぎて、私は返す言葉もない。
「変なヤツだな、君」
私を観察するように見る彼の視線が痛かった。
「………何よ、結局できないんじゃない」
半分強がって、だけど半分本気で落胆して言った。
「できない事もないけどさ、」
蓮城は器用に私の胸元のボタンを片手だけで留めていく。
「このまましても……お互いつまんないだろ?」
「………」
まるで説得するような彼の口調に、私は反論できない。
私の体はこんなだし、彼だって決して楽しくはないだろう。
予想どおりといえばあまりに予想どおりで、逆に期待を裏切られたような気がした。
「君のこと気になってたけど……もっと気になってきた」
「??」
「ちょっと付き合ってみようよ、オレたち」
「え?」
普通の笑顔で当たり前のようにそんな事を言う彼の真意が掴めない。
「気楽に考えてよ、別に無理やりどうこうしようって気はないし」
「でもっ…」
私の言葉を遮って、蓮城は言った。
「気が向いたら今日みたいに泊まりに来ればいいし、食事したり、もっとしゃべったりしようよ」
「………」
「オレ、桧垣さんともっと話してみたい」
「蓮城くん……?」
彼は今日一番の優しい目をして、私を見た。
「考えといてよ、……じゃあ、明日早いし寝ようか」
そう言うとすぐに明かりを消してしまった。
(……何、なんなの……??)
全てが腑に落ちない。
それなのに、彼は私を抱き寄せるとさっさと目を閉じてしまった。
(もう………)
想像していたのと少し違っていた彼に、私も戸惑っていた。
寝返りを打ったと思うと、すぐに静かな寝息を立て始める蓮城。
さっきの言葉、きっとこんな風にいつも女を口説いているんだろう。
そして口説かれた女達は、こんな彼に夢中になっていくんだろう。
彼の茶色い短い髪を、私はじっと見た。
(分からない人……)
だけど、思っていたより嫌じゃなかった。
少なくとも今隣にある無防備な温もりに、何故か心が落ち着いてくる。
(まあいいわ……)
とりあえず何も考えず、今夜は眠ってしまおうと思った。
不思議と……ここしばらく無い程、ぐっすり眠れた夜になった。
――― 夜が嫌い。
夜なんて来なければいい。
だけどそんなふうに夜に怯える事さえ、いつからか馬鹿馬鹿しくなっていた。
全てを無かった事にするために、現実から逃れるために、
私は自分の中に逃げ場を作った。
何も感じなくて済むように、何も考えなくて済むように……
スイッチを切ることで、私は自分を守った。 |