泳ぐ女 STORY Message LINK

 LET THERE BE LOVE
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15.償い

あの事件から1年が経った。

自分も希望して長く入った数ヶ月の入院生活の後、私は寮生活を始めた。
透と暮らした日々は、今 思い出してもまるで夢をみていたような気がする。


―― 私にとって、彼以上の人はいない。

たとえ彼が誰を傷つけようとも。
たとえ酷い悪人であったとしても。
誰かの評価なんて、関係なかった。
全ての人が彼に背を向けようとも、私は手を差しのべたい。
決して、目をそらさない。
自分に彼が必要だということを、今では素直に認めることができる。


『家族』という枠組みが、いかに意味のないものであるかということを、私はよく分かっていたはずだ。
本当の父は、随分前に離婚して、今はどうしているか知らない。
もう完全な他人だ。
現在の父は、『家族』になった途端、私を、自分が自由にできるモノのように扱った。
義父にとって、私は『娘』ではなかった。
母は、母である前に一人の女で、一人の人間だ。
それでも私を育てようとしたところは、多少の評価はできる。
結局、私にとっては完全に他人である義父に、自分の娘を自分の利益のために差し出したのだが。
流れの中で不遇だった彼女を、今では責める気にもなれない。
むしろ同情すら感じる。


入院している間、体が不自由な間、考える時間だけがたっぷりとあった。

私は心のどこかで、「自分は良い人間でありたい」と、渇望していたような気がする。

「良い」という基準は曖昧だ。
だけど、誰から見ても「良い」と評価されるような、そんな人間になりたかった。
しかし現実の自分は、それとは遥か遠いところにあり、いつも失望していた。
失望そのもの、それが自分自身から見た自分の姿であった。

透の目の中にあった、偽りの輝き。
その奥に隠れていた失望。
まるで自分自身を覗き込むような、その色。

現実は厳しくて、本当に望むような自分の姿には遠い。
―― 誰かに本当の自分を、自分が望むように評価して欲しい。
そんなバカげた思いを、心の奥底で捨てきれずにいた。
だけどそう思っていることさえ、見ないように見ないように、誰もが自身の裏側に隠している。

透明な水に落とした銀貨のように、見えているものがありのままの姿なら。
誰もが苦しまずに済むだろう。
自分だけが苦しいのだと、どうして思っていたのだろう。
今なら、母のことも、そして殺したいと思ったほどの義父のことさえ、許せる気がした。


赤間さんが自殺を計り、未遂に終わった事を後で知った。
学内で起きた殺人未遂事件だ。
大学ではあっという間にウワサが広がり、この事件について知らない人はいなかった。
彼女がその後どうなったのかは知らない。
警察が何度か私に話を聞きにきたが、赤間さんの話はあまり教えてくれなかった。
学校で広がる彼女の話は様々で、どれが真実なのかは分からない。

私に対しては、同情的な視線が注がれた。
透は完全な『悪者』になっていた。
客観的に見れば、安いドラマのような話だ。
興味本位のウワサはとどまるところを知らず、まるで創作された話のように独り歩きしている。
これまでの透について回っていた表面的な好評価は、あっという間に反転した。
皆、どこか歪んだ気持ちを透に抱いていたのだ。
取り繕い完成された男、それが崩壊した時に外から見ていた人々は歓喜した。
他人というのは、どこまでもそういうものだと痛感する。
人は無意識のうちに自分が欲しいと思う情報だけを選び、それを現実として受け取るのだ。



あの事件から、私は1年間休学した。
学校へ戻ると注目されたが、事件のことについて細かく質問してくる者はいなかった。
彼らから見れば、私はただの被害者なのだ。

深層心理に近い部分で渇望していた、『良い人間』と評価されたいという願いは、いつしか完全に消えていた。
自分がいかにどうでもいい事を願っていたのだろうと、今更ながらに思う。
黒い汚れた思いが強過ぎて、決して良い人間ではない自分の内を、責めていた。
あきらめていた理想像。
しかし、その像自体、価値のあやふやな儚いものだった。
自分の理想は、まるで空を掴むような漠然としたもので、今の私が求めているのはそんなものではない。
それに、気付いた。



私は、自分を責めることをやめた。


罪悪感を持つことで、自分自身がまだ良い人間であると、どこかで認めていたかったのだ。
もしも義父への殺意に対して、何も感じない自分であったとしたら……
そんな恐ろしい自分に、ただ、なりたくなかっただけなのかも知れない。

赤間さんを責める気にはならなかった。
もしも彼女が透を刺していたら、そして殺していたら…それでも彼女を責める気にはならなかっただろう。
彼女は通り魔ではない。
それぞれの人間が繋がり、その結果起きてしまったことなのだ。
現実に、彼女のしたことは殺人未遂だ。
しかし、私が義父にしたことと、どこが違うのか。
赤間さんが法に乗っ取った形で償いをしていくのであれば、
きっと、私も何かの形で償っていかなければならないのだろう。



「桧垣さん、これ、持っていける?あら、重いね」
「大丈夫……、あ、やっぱり半分お願い」
笑いながら本を分ける。
講義で使った資料を返しに、教授の部屋へと向かった。
「ケガはもう大丈夫なの?」
私を見る1年下の今の級友は、育ちのいい真っ直ぐな目をしている。
「うん、まだ薬は飲んでるけど…もう普通よ」
本の束を抱えて、廊下を歩く。

「蓮城さんって……」
「?」
彼の名前が出てドキっとする。

私に、あからさまに彼の話をする人はあまりいない。
三角関係の縺れ。
周りの人間からしてみれば、赤間さんでさえ蓮城の被害者に見えたはずだ。
「実は、高校一緒で、テニス部の先輩だったの」
「へえ、そうなの?」
透の高校時代の話が出てくるなんて、意外だった。
「すごく、カッコよかったんだよ。テニスもうまかったし」
「ふーん」
高校生の彼の姿、見てみたかったなと素直に思った。
「あ、ごめん…蓮城さんの話、……大丈夫?」
思い出したように気を使って、こちらを伺う彼女。
「全然!してして!」
私は笑顔で答えた。
透のことが知りたかった。私の知らない彼。

「私のいとこが…今大学生なんだけど、蓮城さんの弟と同級生で」
「うん…」
私は透の家族の話を、ほとんど聞いたことがない。
兄弟が多いというのは知っていたが、それぞれがどの世代かとか、そういった細かい事を彼は話さなかった。
「……蓮城さん、今週末、こっちに帰って来るみたい」
「………!」

あの事件で、透を見る周りの目が一気に険しくなった。
元々、いいところのお坊ちゃんだった彼。
その家が、そんな彼の状況を放置するわけがなかった。

私が目を覚まし2週間もしないうちに、透は海外へ留学してしまった。
させられた、と言った方がいいだろう。
旅立つ前の彼に会えたのは、一瞬だった。
お互いにたいした言葉を交わせないまま、私たちはそのまま別れた。
彼が向こうに着いたとき、一通だけメールが届いた。
これから会わない方がいいだろうという事、きっと会えなくなるだろうという事、そして侘びの言葉が綴られていた。
透らしい短い文面だった。


それから、透から直接連絡が来ることはない。

アキラくんから時々メールが来て、私の近況を聞いてくる。
誰に話を伝えているのか分かっているのに、私もアキラくんも、あえて透の名前を出さなかった。
ただ、それだけでも透が元気でやっているのだろうという事は悟れる。



(会いたい………透)

彼が今頃どうしているのだろうと、いつも思っていた。
今、何を考えているんだろうと…
透が私のことを忘れていないのは分かった。
離れていても、分かる。
時間を越えても、きっと変わらないもの。

透がいなくなって、私は強く思う。

私たちは、離れられない。
 

   

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