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 LET THERE BE LOVE
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13.白い世界

誰かを殺したいと思ったことはある………?
誰かを殺したいと思う程、憎んだことは、ある……?



白い世界。
意識が遠くなっていく、その瞬間に見たのはあの日の情景。



――― 義父が憎かった。

どんなに感情を押し殺そうとも、どんなに感覚を閉ざそうとも、その分私の中で憎しみは濃く固くなっていったのだと思う。
自分でも気づかないほどに。
抑えていたそれは、いつしか触発する程に脆く大きくなっていた。



体裁ばかり気にする母と義父への、義理で付き合った合格祝いの席。
合格したのが嬉しいというよりも、嫌でたまらない義父と同じような道を選択した自分が滑稽だと思った。
そのせいで更にその世界の実力者である義父への借りが増えてしまったというのに。

何かの帰りだったのか、その日の父が礼服を着ていたのをやけに覚えている。
確か母もそれに合わせてフォーマルな格好をしていた。
私はといえば、…どうだったのだろう。
取り繕うだけの食事は、淡々と進んだ。
唯一良かったことと言えば、ピアノが生演奏されていたので会話をしなくても間が繋げたということだけだ。

過去の私たち母子から見れば妬ましい程の金を、その食事のためだけに簡単に出す事のできる義父。
そんな生活を手放せない母。
そして体を代償にしてまでも、それに頼るしかない自分。
力関係は歴然としていた。

帰り際、母が化粧室へ行き、普段なら義父と二人きりになるのをことごとく避けている私が、その時はなぜか彼と残った。

吹き抜けだった。
足元は白い大理石で、下のフロアへと繋がる階段を見下ろすところに私と義父は立っていた。
細かい状況は、もうあまり覚えていない。

唐突に、思考が止まった。



私は義父の足元を見た。
階段まで、数十センチ。

次に視線を上げたとき、私は義父の背中を押していた。


バランスを崩し、落下しながら体を捻る義父の様子はスローモーションのようだった。
その間に、何度も階段へと当たり体が跳ねていた。
義父は私に視線を向けることなく、途中の踊り場に体を打ちつけて止まった。

白い床。
それを照らす白い照明。
視野の中にあったのは、ただ落下する黒い服を着た義父の姿。
白く狭まる視界の中、私はただ、黒い父を見ていた。



落ちたのはたいした距離じゃなかったはずだ。
自分自身が義父へとかけた力がどれぐらいだったのか、全く覚えていない。

義父の打ち所は悪く、彼は大怪我を追った。
その場の状態から、義父を看た医者も不運な事故だと口にしていた。
店側からは相当な謝罪を受けたらしい。
怪我をした義父自身もその時の状況が飲み込めず、単なる転倒事故だと誰もが理解した。
しかしその事故を機に、彼は自立歩行する事ができなくなった。
…私を犯しに来ることもなくなった。




義父の背中を押したとき、
視野も、心も、真っ白になっていた。
今考えても、どうしてそうしてしまったのか分からない。

ただ自らの手に、強い思念の残骸だけがあった。
その強さに、呆然とした。

―― 彼へと吐き出された思いは、まぎれもない殺意だった。



義父へと残った障害は、私自身が犯した罪をいつまでも私に見せた。
冷静になったその後で、自分自身、間違った事をしたのではないかと自責の念にかられた。
彼が普通の人なら良かった。
義父は優れた外科手術の技術を持ち、何百、それ以上かもしれない人の希望になっていた。
彼にこれから助けられるであろう命の可能性を、もしかしたら私は潰してしまったのではないかとすら思った。
それに比べれば、私が心や体に受けた傷などちっぽけなものかも知れない。
潰れるのなら、私自身の方が良かったのではないかと、何度も考えた。
そう思うと生きているのすら辛く、そして義父の姿を見るのも耐えられなかった。

ただ黙って、犯され続ければよかったのか………


罪の意識が半分あるとしても、義父がもう私に触れてこない安堵も半分以上あったというのが本音だった。
そしてそれが本音であるからこそ、更に自分自身が悪人のような気がした。
実際、そうなのだろう。
もし目撃者がいたのなら、私は殺人未遂を犯したことになる。
義父が私にした罪と比較しても、現実に私の罪の方が重いのだ。

(悪いのは、私………)


意識しても無意識でも、いつも自分を責めていた。
罪を犯した分、せめて自分自身が誰かを救えるようになれればと思った。
そんな風に考えるのもおこがましいのだが、そう思う事で自分が少し救われた。

義父の影は、いつも私の中にあった。
勿論あの日の前も。
そしてあの日を境にそれは更に黒く強い影になり、私を苦しめた。


自分が普通の生活をしている事にさえ罪の意識を感じ、眠れない夜も随分あった。
こうして存在していること、それすら……
許されない事なのではないのかと。



「……………」

……白い。
白い天井。
体が動かない。眩しくてたまらない。

点滴に繋がれていることで、病院だということを知る。
右側に視線を向けると、憔悴している彼がいた。

(透……)

彼がそこにいてくれるだけで、なぜか涙が出てきた。
声を出そうとして、自分に装着されている呼吸器に気付いた。
指先にすら力が入らない。
義父もこんな感じだったのだろうか。
この期に及んでそんな事を連想してしまう自分を嫌悪した。

疲れきっている様子の透を、私はしばらく見ていた。
その間も、彼へと手を伸ばそうと力の入らない指へと念を送る。
ある瞬間呪縛が溶けたようにピクリと、指先が動いたのを感じた。

「紗羽……?」


透と目が合った。
彼はだいぶ痩せていた。

(透……)
唇を動かそうとしても、カラカラに乾いた喉から声が出ない。

「紗羽?!紗羽!!」

驚きと喜びと戸惑いと、さまざまな感情が溢れた透の表情。
私はその顔を一生忘れない、と心に誓った。


透がナースコールを掴んだ。
私は彼に手を伸ばそうと、力の入らない指先をもっと動かそうとした。
「意識が、戻りました!はい……今です!」
透の視線が私に向く。
私は涙を流したまま、彼を見つめ返す。

「紗羽………ああ……」

透が崩れた。
私のすぐ横へ、顔を近づけてくる。
「良かった……紗羽………紗羽……」
透が私の髪に触れた。
なぜ自分がこうしているのかが、すぐに理解できなかった。
あの時義父を突き落としたはずだったのに、落ちたのは自分だったのではないかと一瞬思った。
透がここにいなければ、そう思い込んでしまったかも知れない。

(私……)
呼吸器が邪魔で声が出せない。
(透……)
そうだ、刺されたのだ。
透と関係のあった、彼女に。


(因果応報、なのかな…)

寝起きのような回らない頭で、ゆっくりと考えた。
こうなる事を予感していたような気さえした。
何か、ハッキリとした罰を、自分自身が求めていたのかもしれない。

透は、泣いていた。
彼でも泣くことがあるのかと、こんな時なのにそんな風に思った。
「と、……おる……」
小さく掠れた声で、やっと彼の名前を呼んだ。
透に聞こえたかどうかは分からないけれど、唇の動きを彼は察した。

「紗羽……ごめん、ごめんな……」


(謝らなくてもいいのに……)


手を伸ばして抱きしめたかった。
動かない体の内、意志を伝える術のないまま、涙だけが溢れた。


(神様、どうか……透を守って…)

心の中で何度も繰り返し、祈った。
『生きていた』という事実の重さ。
ただ、白くなる未来への不安が、私を支配した。

 

   

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