車に乗せた時には震えていた紗羽の手も、マンションに着く頃にはだいぶおさまっていた。
顔色が悪いままの彼女の肩を抱いて、オレは部屋のドアを開けた。
「休んでなよ…、何か飲む?」
オレの呼びかけにも、紗羽はぐったりしてソファーに半分寝そべったまま首を振った。
高層階なのでほとんど開かない窓を少しだけ開けると、隙間からすぐに強い冷たい風が吹き込んでくる。
オレはあわてて窓を閉め、暖房のスイッチを入れた。
紗羽の隣に座り、黙ったまま彼女の腕を撫でる。
しばらくそうしていると、だんだんと紗羽は落ち着いてきた。
「どうした……?」
改めて彼女に聞いてみる。
「分からない……授業が始まったら、急に胸が苦しくなってきて…」
「胸?」
紗羽は頷く。
「うん、呼吸が苦しくなってきて……体が冷えていく感じがして」
「こんなこと、前にもあったの?」
オレは心配になってくる。
「ううん、…初めて。でも、もう苦しくないわ。ちょっと気分が悪いだけで…」
「……」
立ち上がって、オレはクローゼットへ行き収納ボックスの中を探った。
すぐに使える状態でしまわれていた聴診器を取り出すと、紗羽の隣に戻る。
「ちょっと聴いてみる?」
オレが笑ってしまうと、紗羽もつられて微笑んだ。
だいぶ元気になってきたようだ。
「お医者さんみたい」
「ある意味、もう近いだろ」
冷たい聴診器を紗羽の胸に当てる。
心臓の音、普通よりドキドキしているような感じだったが、雑音が混ざっているようなことはない。
「深呼吸して」
「うん」
「……オレが診る限りでは、とりあえず大丈夫そうだけど」
「良かった」
紗羽は笑顔を返してきた。
「はあ……もう、大丈夫みたい」
「顔色もだいぶマシになってきたね」
「…………」
「何だったんだろうな…疲れてる?」
「……そうかも」
彼女の表情は浮かないままなのは、体調が悪いだけではなさそうだ。
「さっき紗羽が受けてた授業、あの講師って紗羽のお父さんなんだろ」
ピクンと紗羽の指先が動いたのを、オレは見逃さなかった。
「……うん、そう」
「ふうん」
「…………」
お互い黙ったままでいると、紗羽の指がまた震え始める。
「大丈夫?」
「うん……大丈夫よ」
ぎこちない笑みを浮かべて、紗羽は自分の手をギュっと握り締めた。
オレはその手に自分の手を重ねた。
ずっと気になっていたことがあった。
彼女が、異常に自分の家に帰りたがらないこと。
初めて紗羽を誘った夜、オレを嫌悪していた様子だったのに「泊めて欲しい」と言ってきた。
その時も不審に思っていた。
紗羽は何も恐れていないように見えて、いつも何かに怯えている。
それが何なのか。
以前は踏み込むつもりなどなかった。
しかし今では、垣間見える彼女の闇が気になってしまう。
紗羽が何を考え、紗羽に何があったのか……オレにはもう避けられない。
「何かあった?……家で」
そう言葉に出してしまうと、予見できてしまう。
彼女が男を拒絶する理由。
家に帰りたがらない理由。
父の名前だけで震えるほどの理由。
「………あった、って言うのかな」
あっさりと紗羽は答えた。
「あの人、義理の父で」
ため息を混ぜながら、それでも落ち着いた声だった。
しかしその様子からどれだけ嫌悪しているのかが分かる。
「……」
「私、犯されてたの」
「………」
とっさに、やはり、と思う。
そうなんだろうと薄々分かっていた。
「もしかして、今も……?」
オレは言った。
「ううん、まさか…あんな体じゃ」
(あんな体?)……今日の授業、オレは受けていない。
予定だと来週のはずだ。
納得できなかったが、改めて聞く気にもなれなかった。
「そっか」
オレは桧垣医師を知らない。
それでも紗羽を追い詰めた男に対して、負の感情が沸々と生まれてくる。
―― 憎いと思った。
彼女が頑なに体を閉ざす程に、嫌悪を与え続けた男が。
(紗羽を好きなんだ、…オレは、思っている以上に………)
こんな気持ちになるなんて、自分自身、本当に意外だった。
紗羽を大事にしたいと強く思う気持ち。
自分のものだと思っている女が、他の男に汚されていたという憎悪。
(はあ……)
オレは心の内で、大きく息を吐いた。
「もう、ここに住んじゃえば?」
「…え?」
紗羽は驚いてオレを見つめてくる。
「いいじゃん、住んじゃえよ。そんな思いまでして、なんでそんなとこにいるんだよ」
「だって……行くところもなかったし…それに学費だって」
「じゃあ尚更…、もうここにいたらいいじゃん」
オレらしくない、ムキになっていた。
自分でも分かっていたが、でも抑えられなかった。
「学費だって、いざとなれば奨学金制度とかあるだろ。
それ以上に、あんだけ名声があって娘にそんな格好悪い事、桧垣がさせるわけないだろう?」
「……」
「紗羽が、あの有名な桧垣医師の娘だってことは、この学内で知らないヤツなんていないだろ?
何ビクついてるのか分かんねえけど、…そんな家にいちゃダメだ、紗羽」
「透……」
紗羽がオレの首に腕を回してくる。
「そんな風に考えたこと、なかった…」
「ここに、来いよ………、なあ」
オレも彼女の背中に手を回した。
紗羽の髪に指が触れる。
「……ありがとう、透」
すがりついてくる彼女を、オレは抱きしめた。
眠った紗羽をベッドに残して、オレはキッチンのカウンターチェアに座り窓の向こうに広がる夜景を見ていた。
白い煙を吐き、タバコを灰皿に押し付ける。
「ふ………」
義父にレイプされたという紗羽。
それがいかに彼女にダメージを与えたかというのは、紗羽の様子から実感として分かっていた。
強引に女をモノにするという行為。
オレは、紗羽の義父の事を責められるのか。
―――― 胸が痛くなる。
オレは同類じゃないのか。
…結果として、女たちはオレに従ってきた。
しかしそれは本当だったのだろうか。
女がそれで満足しているという、オレの思い込みだったのではないのか。
(罪悪感、か……)
今更、だがこれまで思ってもいなかった。
オレはまたタバコに火を点ける。
女なんてどうでも良かったんだ。
その場だけ、楽しい雰囲気とか、身体を満足させるとか、その程度で十分だった。
金もルックスも、そして今手にいれようとしている医師としてのブランドも、オレを表面的に色付けてくれていた。
そういうバカらしい装飾を求めてくる女に、魅力なんて感じるはずもない。
オレ自身も、心から女を求める気持ちなんて、微塵もなかった。
(…………なのに)
まさかこんな気持ちになることがあるなんて。
心から求めたその女は、他の男にレイプされていた。
(フッ………)
皮肉なものだ。
紗羽がそうされていた事が、まるでこれまでのオレへの報いのような気がした。
オレ自身が女にしてきた仕打ちが、紗羽へ返ってきているようだ。
「ごめんな、紗羽…」
反省なんてオレのガラじゃない。
それでも、桧垣医師に感じる嫌悪感はまっすぐ自分自身へ繋がってしまう。
「バカだな……」
オレは初めて自分自身を責めた。
これまでの行いを、背負うだけの度量がオレにあるのだろうか。
紗羽が家へ帰らないと決めてから、4日経った。
付き合い始めてからオレの部屋に入り浸っていたせいもあり、紗羽がここにずっといても違和感はない。
彼女の家のことが心配だったが、飛び出してしまえばそれも何とかなっているようだった。
オレとしては、挨拶をしに行かなければならないのなら、行ってもいいと思っていた。
紗羽が、それは必要ないと突っぱねるので、その話はうやむやになっている。
『ピーピーピー』
カウンターで充電している携帯から、メールの着信音が鳴った。
以前一瞬だけ付き合ったことのある女からだった。
未だに以前関係のあった女から、時折連絡が入ってくる。
女は無視するとしつこさを増す。
オレはその都度きちんと断りのメールを出していた。
もうその気はないと、ハッキリと伝えるのだ。
大抵の女はそれでそれっきりになる。
それでも何人かの女からは、懲りずに何度も誘いがかかる。
そんな女の相手をするのにも、最近疲れてきた。
(いい加減メアド変えようか…)
今がそのタイミングだと思った。
この際機種変更でもしようかと考えていると、アキラから電話がかかってくる。
「いいぜいいぜ……じゃあ、20分後ぐらいにそっちに着くと思う」
「出かけるの?」
携帯を切ったオレに、紗羽が声をかけてくる。
「ああ、友達。……紗羽も一緒に行くか?ついでにメシ食って帰ろう」
「いいけど…急いで準備しなきゃ」
紗羽は慌てて着替えを探しに行く。
「いいよゆっくりで、メールしとくから」
アキラと会うのも久々だ。
昔は毎日のように一緒にいたが、ここ数年は時々会う程度になっていた。
紗羽とこんな関係になってからは尚更、あいつと会う機会が減っていた。
こじんまりした店構えの洋食屋、OLに混じってガタイのいいアキラは目立っていた。
「はじめまして、だよな。トオルの彼女さん」
「桧垣紗羽です……」
生真面目にフルネームで自己紹介する紗羽。
アキラはニヤニヤして、オレと彼女の顔を見比べていた。
そんな奴の目つきがオレは気に入らない。
「トオルとは高校が一緒で、その時からの……」
アキラが変な事を言い出さないか、冷や冷やした。
紗羽は普段学校で見かけるような彼女の様子で、丁寧にアキラの話を聞いていた。
アキラと久しぶりに会ったせいか、オレは結構飲んでしまった。
オレたちのペースに釣られて、紗羽もいつもより飲んでいる。
「ちょっとお手洗いに……」
紗羽が席を立つ。
オレはアキラを睨んだ。
「お前の目つき、何なんだよ……やめろよ、感じ悪い」
「別に普通だろ」
そう言いながらもアキラはニヤニヤしていた。
「しかしトオルにもやっと本命ができたか!…いいじゃん、彼女」
「うるせえなあ」
照れるというよりムカつきながら、オレはふてくされた。
「でも紗羽ちゃん…なんかお前に似てるよな」
「そうか?……どんなとこが?まさか、顔?」
酔っ払いかけているオレはふざけた調子で言った。
それ対してアキラは真面目に答えてくる。
「何ていうか、雰囲気?…色?……中身?……目の感じ?」
「………」
最初の頃、紗羽に抱いていた気持ちを思い出す。
オレに似ている、と感じた。
「どっちにしてもお似合いって事だな」
アキラは笑った。
そして戻ってきた紗羽に、またすぐ話しかけていた。
歩道沿いにある地下鉄入り口で、アキラは立ち止まった。
「今日はどうも、楽しかったよ」
「わざわざ出てきてもらってごめんな」
オレたちは歩いてこのままマンションまで帰れる距離だった。
紗羽も会釈して、オレたちが少し歩き始めた時、アキラがオレを引き止めた。
奴はかなり飲んでいて、元来酒は強いのだが今日はいつも以上にテンションが上がっていた。
「それじゃ、お幸せにな…………くれぐれも気をつけて」
アキラの最後の一言が引っかかる。
「何だよ、気をつけろって」
オレがそう言うと、逆にアキラが驚いていた。
「オレそんなこと言った?」
ぽかんとしたアキラはほんの一瞬考えて、また続けた。
「夜道に気をつけろって事だよ!じゃあまたな!」
「おお、お前こそ気をつけろよ!」
笑って送ったが、アイツの神妙な言い方が気になった。
紗羽の手を握って、オレはマンションへの道を歩く。
飲んだヤツ、残業したヤツ…とりあえず家路を急ぐサラリーマンたちを横目に見つつ、悠々と歩を進める。
「アキラくんと、本当に仲いいんだね」
「ああ……仲、いいのかな?」
確かに、オレが気を許せる唯一の男はアイツだ。
アイツがいてくれたからこそ、他人と薄い関係でいようともオレは大して孤独も感じずに生きてこれたんだろう。
アキラはオレの最低なところを知っている。
そしてアイツにとってはオレもそうだ。
それがオレとアイツを強く繋ぐ。
考えてみれば、皮肉なものだ。
「いいね、親友って感じで」
見上げてくる紗羽の瞳が、夜の光に照らされて一層潤んで見えた。
「まあね……それより早く帰ってシャワー浴びてエッチして寝ようぜ」
オレは思ったままを口にした。
紗羽は一瞬吹いて、そして微笑んでオレにくっついてくる。
こんな彼女の姿を、出会った頃は想像もできなかった。
オレは不思議な安堵感に満たされる。
その裏側にある不安から、今夜だけは完全に目を背けようと、オレは思った。 |