「この格好でされるの、嫌?」
透の声に、私は顔を上げて少し後ろに振り向こうとした。
上半身はベッドにうつ伏せになったまま、お尻を彼に引っ張られるような姿勢で後ろから挿れられていた。
「あっ……」
返事をする前に、透は自分のものを私から抜いた。
私の体を仰向けに裏返し、彼は再び私の足を開く。
「あぁっ……」
ゆっくりと透が入ってくる。
抱きしめあうような形になり、私は彼へと手を伸ばす。
彼は動かない。
「どうして……?」
何故そんな風に思ったのか、私は彼に聞いた。
「紗羽の反応が、固くなったから」
透が私の頬に触れる。
「時々、まだ体が緊張するね」
彼の声は優しかった。
「………」
心の奥底に刻まれたトラウマは、簡単には消えない。
時折意識の底で、私は自分に触れてくる何かを拒んでしまう。
それが透だと理性で分かっても、一瞬全てを遮ろうとする無意識の自分。
透は優しい目で、私をじっと見ている。
どこか切なげなその瞳は、出会った頃の色とは違っていた。
相変わらず乾いていたけれど、奥の方に暖かさな光が見えた。
その光は深くて、私は彼に取り込まれそうになる。
「…好きだよ………」
透が両手で私の頬を包む。
その言葉を彼がこれまで何度も使っていたとしても、そんな事はどうでもよかった。
私にとって彼が特別であるように、彼も私には他と違う感情を持っている。
それを感じる事ができたから…
「紗羽……」
「うん……私も……」
私も彼の頬に触れた。
その手は自然と首筋にまわり、キスするのと同時に彼を抱きしめていた。
「んんっ………」
動き出す彼。
包み、包まれる ―――――
人生の中でこれまで、幸せだなんて思ったことはなかった。
透と出会って、思い知らされた。
抗いようのない幸福感……
理屈でまとめられない。
透の肌に触れる自分の肌から、温もりが染みるように入ってくる。
それが心にまで届いたとき、私の全てが震えた。
(何もなくていい……)
このまま、二人だけの世界でいられたならと、
何度も何度も頭の中でそんな思いが巡った。
目を閉じても開いても、彼の存在を感じられる事がこんなに幸せだなんて。
「透……透…」
彼の名を呼んで、全身で彼を感じる。
(このままでいたい……)
時が止まって欲しいと、何度も切に願った。
本当に私の願いだった。
冬休みも過ぎ、学校の方は相変わらずレポートや授業などでバタバタしていた。
「それじゃ、帰り待ってるから」
透と二人で堂々と通学する事も多くなっていた。
彼氏に送ってもらう子も多いので、それ自体はたいした事じゃない。
それでも“蓮城”の彼女だということで、以前よりも私は注目されるようになってしまった。
「ホントに仲いいよね、蓮城君と」
同じクラスの小倉真紀が言った。
「ねえ~、でも蓮城君ってさ、特定の彼女作ったのって桧垣さんが初めてじゃない?」
学校での数少ない友人である庄野奈々も、小倉の言葉に頷いた。
「いいな、桧垣さん……私もあんなかっこいい彼氏が欲しいわ」
「ほんとに羨ましいよ!」
小倉と庄野は二人で透の話題で盛り上がっていた。
私はあいまいに相槌を打って、教室の端で談笑している透を見ていた。
授業が終わり、一斉に教室がざわめき出す。
「じゃあ、私はここで……」
二人に向けて私は愛想笑いをする。
「蓮城君と帰るの?あーもう、ホントにいいなあ……」
「私はまっすぐ帰ってレポートやります…」
クラスの友人はなんだかんだ言ってもニコニコと私を送り出してくれた。
学校だけの表面的な付き合いだったけれど、その方が私は気が楽だった。
透の車へ行く前に、トイレに寄った。
冷たい水で手を洗い、少し口紅を直そうとカバンを開けたときだった。
「あら……」
私を嫌な目でじっと見ながら、豪華なファーのついたコートを着た、いかにもお金持ちのお嬢様風の子が個室から出てきた。
名前が思い出せず、私も彼女をじっと見返してしまう。
「………」
途端に重たい空気になる。
彼女は洗面台へと歩いてきて、私の隣に並んだ。
「トオルと付き合ってるんでしょう?」
「えっ………」
唐突に言われ、頷く事もできず私は驚きの声しかあげられなかった。
「……かわいそう」
歪んだ笑みを浮かべて、鏡越しに私をにらんでくる。
「何がですか」
この人が何を知っているのか。
透の事に対して、そして私と透の関係に関して。
「トオルってすごく優しいでしょう?」
「……」
「でもあの人、誰かに本気になることなんてないから」
「………」
馬鹿馬鹿しくて返事をする気にもなれなかった。
私は口紅のキャップを開け、鏡の中の自分に向き直った。
「……『幸せ』だと思えるのなんて、一瞬のことよ」
「………!」
「あんまりのめり込まないほうがいいわよ」
自嘲するような笑いと一緒に、彼女はブーツのヒールの音を派手に立てて去っていった。
(…………)
何故か胸が痛くなる。
今現在、私が透に感じている幸福感を、きっと彼女も感じたひと時があったんだろう。
そしてそれを失った今、彼女の心は傷んでいた。
透に愛されている今だからこそ理解できる。
彼女の痛みが。
透を失ってしまったら ――――
ブルっと肩が震えた。
透が私から離れてしまうのを想像するのは、幸せな今の状況にいる私には無理があった。
ただ漠然と、何かに引き剥がされる……そんな予感を感じて少し怖くなる。
――― 嘘だ。
彼を失う事を、今の私は何よりも恐れていた。
自分が自分でなくなってしまう気がした。
…それなら透と出会うまでの自分は何だったのか。
もし透がいなくなったら………
もう以前の自分には戻れない。
大きな喪失感を抱いたまま、昔よりもさらに大きな闇に呑まれるだけだ。
今だって、心の闇は消えていない。
透の光で、少し見えなくなっているだけで。
じわじわと広がり続ける影を止めることはできない。
本当に、時間が止まらない限りは。
それから数日が経った。
トイレで会った子の名前は、すぐに分かった。
意識すると、透を目で追いかけている赤間麻璃の姿に頻繁に気づく。
彼女は、彼のことを想っている……
ささいな一瞬に、感じ取ることができた。
麻璃もまた、透に本気なのだ。
透がいろんな女の子に優しくしてきたであろう事は容易く想像できる。
私はそれを否定したり、それに嫉妬したりする気持ちはおきなかった。
彼は、彼、なのだ ―――
今、私の知っている彼は、きっとそんな彼女たちの知らない彼だ。
言葉で言わなくても、分かった。
不思議だった。
席につき、携帯をマナーモードに切り替えようとしていた時に、小倉が言った。
「今日の講義、もしかして桧垣さんのお父さん?」
「えっ…??」
私は耳を疑った。
「予定表見てない?ほら、今日の特別講義、『桧垣昭蔵』って…」
「ほ、本当に?」
「『脳外科名誉教授 桧垣昭蔵』って書いてあるよ…桧垣さんのお父さん、脳外科の有名な先生じゃなかった?」
「…………義父(ちち)だわ…」
事前に配られていたプリントを見ていなかった。
最近では家にもめったに帰らなかったし、帰ったとしても義父のいない時ばかりだった。
もう何日も彼には会っていない。
(嘘でしょう……)
心臓がザワザワしてくる。
外で義父と顔を合わせたことがないのだ。
義父はいまだに海外で講義をしたり、国内での難しい手術に立ち会っていたりと忙しいはずだ。
まさか大学の講義に来るとは思ってもいなかった。
戸惑っているうちに、車椅子に乗った義父が入ってきた。
教壇と離れているところに席を取っていて良かったと思う。
それでも気付かれるのは時間の問題だ。
……教室内が静まる。
この世界では著名な人だった。
そして、自ら体が不自由となった今でも現役で優秀な仕事をしている。
教室中の誰もが、一瞬で義父の雰囲気に呑まれた。
圧倒的な威圧感。
多くの生命を繋いだという実績が、オーラのように見えない波を作り彼を後押しする。
「本日は、手術に立ち会う心構えと、患者および患者の親族に接する時の姿勢を講義したいと思う…」
ふと、義父の視線が止まる。
私に気付いたのだ。
彼の視線の方向を、クラスの子が何人か追ってくる。
「そういえばあの子、桧垣さんって……」
私を見つけると、ヒソヒソと会話する生徒たち。
「重篤な患者の生命が、自らの技量に委ねられているといった場合…」
義父は講義を始めた。
術中のプレッシャーに対しての対処について、興味深い事象を分かりやすく説明する。
そんな彼には強いカリスマ性があった。
(だけど……)
私は彼を見ていられない。
家の中と、今講義をしている義父とはまるで別人のようでも、実際に目の前にいるのはあの義父以外の何者でもない。
私を暗い闇へと追いやった張本人。
それも二度に渡って、私を追い詰めた。
一度目は体を許し心を閉ざす事だった。
二度目は……。
そしてこれからもその闇は広がり続けていくだろう。
動悸が激しくなる。
嫌な汗が出てきた。
この場にいたくない。
目を開けて、義父を見たくなかった。
あの顔…、そして車椅子の姿。
(透……助けて…)
胸が苦しかった。
苦しくてたまらない。
講義は1時間以上続いた。
その間、私はほとんど話を聞くことはできなかった。
下を向いたまま、震える手を握り締めていた。
「お父さんの講義良かったね」
小倉が私に振り向いた。
私の様子がおかしいことにすぐ気付く。
「え、ちょっと……、桧垣さん?どうしたの?」
「だ……大丈夫」
私は小声でなんとか答える。
「でも、顔真っ青だよ?……震えてるし…立てる?誰か…」
小倉は周りを見渡す。私はあわてて彼女の手を掴んだ。
「透……」
「え?」
「……透、呼んで……お願い」
小倉に呼ばれて、すぐに透は来てくれた。
「どうした?!紗羽?」
「授業が終わったらもうこの状態で……、桧垣さん、大丈夫?」
「立てるか…?医務室行くか?」
「大丈夫……医務室より……帰りたい」
気分が悪かった。
心なしかフラフラする。
透に寄りかかるようにして、私は彼の車まで連れて行ってもらった。
小倉もそこまで来てくれた。
「じゃあ、オレ送っていくから」
「うん……気をつけて」
心配そうにこちらを見る彼女に少し笑顔を返し、私は透の助手席に沈み込んだ。
透の車の匂いがする。
「大丈夫か…?」
私の髪を撫で、彼も心配そうに私を見た。
「…ちょっと休みたい……」
「……」
透はシートを倒してくれる。
動機は少し収まってきた。
「透……」
薄く目を開けて、透の方へと手を伸ばした。
その手に透は手を重ねてくれた。
車がゆっくりと発進する。
透は黙っていた。
「………」
外で父に会っただけでパニックになった自分が情けなかった。
自分自身がこんなに拒否反応を示すとは思わなかった。
追い詰まってすがりつく先に、透の顔が浮かんだ。
想像以上に、私は透を必要としているんだ。
「………」
繋いだ透の手が温かい。
私が少し力を入れると、彼も握り返してくれる。
それだけで嬉しかった ―――
『それだけ』が、言葉にならないほどに。 |