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心に薔薇の赤、両手に棘を
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12.開放

前回、泉がこのマンションに来たのは、1ヶ月以上前だ。
部屋に入ると、この前のことが現実味を持って思い出されてくる。
ここで二人に抱かれ気を失うまで快感を貪ったのだ。
しかし泉にとって、それはもう随分昔に起こったことのような気がしていた。
彼女は、決意していた。

ケホ、ケホッ
泉は風邪をひいていて体調が悪かった。
「大丈夫?泉ちゃん?」
トオルが暖かい紅茶を入れてくれている。
彼は男のわりにマメで、一人だというのに行き届いた生活をしていた。
いつ来ても、部屋はキチンと片付けられている。
観葉植物までもが美しく育っていた。
学生の一人暮らしにしては広すぎる部屋を眺めながら、泉はソファーに寄りかかっていた。
3人で何度も体を重ねあったベッドには、ブルーグレーのシーツが丁寧にメイキングされていた。

「元気ないね、泉ちゃん……今日はエッチできないかな?」
トオルが泉の横に腰を下ろした。
「うん…」
泉が深く、ゆっくりと頷いた。
「あのね、トオル……」
泉が顔を上げると、トオルがすぐ側にいて唐突に泉の両肩を掴んだ。
トオルの顔が近づいてくる。
何の前触れもなく、泉はトオルにキスされそうになる。

「あっ…やっ……やあっ!」

泉はほとんど反射的に声をあげて、トオルを跳ね除けようとした。


ダン!

突然大きな音が部屋に響いた。
泉はその音に驚いて一瞬身が竦む。
室内は静まりかえり、トオルと泉は同時に音のした方へ向いた。
アキラが立っていた。

「…ぁにしてんだよ、トオル!」

アキラはトオルに走り寄ると掴みかかり、泉をトオルから剥がすように離した。
「なんだよ!アキラ」
ソファーから落とされたトオルは突然のことで怒りながら、立ち上がってアキラの腕を掴み返した。


―― 部屋に緊張した空気が流れる。

「泉に、何してんだよ!」
アキラがトオルの服を掴んだまま叫んだ。
一瞬沈黙があったが、すぐにトオルは我に返る。
「放せよ…」
トオルが冷静に言った。
まだ興奮していたが、アキラはトオルから手を放した。
泉は驚いたまま、二人の様子を見て怯えていた。
「何もしてねーよ、泉ちゃんにキスしようとしただけだよ」
もう、トオルは落ち着いていた。
アキラの考えを見透かしたような目で、じっと見ている。

「それが、悪いのか?」

トオルが吐き捨てるように言った。


その言葉で、アキラも冷静さを取り戻していく。
アキラの視線が泉の方へ移った。
泉は怯えながら、アキラから視線を反らした。
(トオルは、今までどおりにしてただけ…)
突然とはいえ、大声を出してしまったのは自分だ。
決してトオルが悪いわけではない。
今まで、こんなことは当たり前だったのだから。

「ごめん、今日は帰る…!」
泉はバッグを掴んでソファーから立ち上がり、二人の横を走って玄関の方へ向かった。
「…っずみ…」
アキラはちらっとトオルを見たが、すぐに泉の後を追った。

トオルはそんな二人の後姿を黙って見送り、ソファーに座り直した。


二人が去った後の部屋には静寂が広がる。
トオルは冷めた頭で考えていた。
「あいつら、何かあったな…」



泉の心には、トオルの一言が突き刺さっていた。

―― それが悪いのか? ――

これまでの自分は、二人の玩具だったのだ。
トオルが言うように彼のした事は特別な事ではなかった。
いつものように、接してきただけ。

トオルのマンションから出たところで、走ってきたアキラは泉に追いついた。
「泉!」
泉は振り返った。
アキラは少し困ったような顔をしていた。
「……」
泉は言葉が出ず、黙って再び歩き始めた。
アキラが少し後を付いて歩いてくる。
指先が凍りそうなくらい、寒い日だった。
「ごめん…」
泉がつぶやいた。
吐く息が真っ白になる。
アキラは黙って泉の肩に手をかけて、近くに停めてあった車へ向かった。


車に乗った後も、二人は暫く黙ったままでいた。
アキラはエンジンをかける。
空調が回り始め、エアコンの独特の匂いが車内に広がっていく。
何も言わず、アキラは車を発進させた。
沈黙が続いた。

「トオルに、何かされたわけじゃ、ないの…」
泉がやっと口を開く。
アキラは特に目的地もなく、ただ車を流していた。
「分かってる…」
トオルの冷めた目つきを、アキラは思い出す。
「あたし、…もう…」
泉は両手をぎゅっと握り締めた。
強すぎる空調の音だけが、車内に響いていた。

「もう…3人で、会うの…やめる…」

泉は決心していた。
「……」
いつのまにか海の近くまで来ていた。
さすがにこの寒さの中、公園を歩いている人はいない。
無料の小さな駐車スペースも、今日は車が停まっていなかった。
アキラは黙ったまま、そこへ車を入れた。


車を停めると、外の気温との差ですぐに窓ガラスが曇っていく。
「泉…」
アキラの表情は重かった。
最近切った前髪が、以前よりも彼の印象を若く見せている。

「泉……ホント…、ゴメン…」
苦しそうな声で、アキラが言った。


「アキラ…?」
泉はアキラの切羽詰った口調に戸惑う。

アキラはハンドルに頭を付けていたが、顔をあげて泉を見ずに言った。


「オレが、泉をやっちゃおうって言ったんだ」


(え…?)
一瞬意味が分からず、泉はただアキラを見つめるだけだった。

「オレのせいなんだよ…。オレがトオルをけしかけたんだ…」

泉はトオルに呼び出された日のことを思い出す。
「泉と、やってみたかったんだよ…。泉先輩と、やりたかったんだ…」
これまで泉はあの日の夜のことを考えないようにしてきた。
―― トオルに騙されて、眠らされ、いつのまにか裸にされて…
しかしすぐにその時の恐怖心が薄れてしまうほど、泉は二人との関係に嵌っていったのだった。
その後、トオルには何度となく謝られた。
その夜のことを、悪かったと…。

「アキラ…」
泉の言葉をアキラがさえぎった。
「黙って聞いてくれ……。オレたち、そういうコトしたの初めてじゃないんだ…
悪いことだって分かってたのに………これって犯罪だよな…」

泉は息を呑んだ。

「だけど、そうされた女もさ…一度そうなっちゃうと、今度は自分から来るようになっていくんだよ。
トオルがフォローするし、……やっぱ、溺れてくんだよな」
アキラの言葉に泉は胸が痛む。
彼らが巻き込んだ他の女の子と同じように、自分も…トオルとアキラの術中にはまったのだ。

自分も肉欲におぼれてしまったのだ。

そして、彼らの思うとおりの女になっていたのだ。


泉の目が無意識に潤んでくる。
突然現実を目の前に突きつけられたような気がした。

「だけど…おかしな話だけど、今度はオレ達がハマったんだよ…泉に…」
アキラが短くなった前髪をかきあげて、続けた。
「こんな風に、始まるべきじゃなかった…。もう、いくら後悔しても…遅いけど…」
自分たちがしてきた過ちが、今二人に大きく圧し掛かっていた。
「ごめん…今更幾ら言ってもしょうがないけど…本当にゴメン…」
「……」
泉は今にも泣いてしまいそうだった。
何かが、大きくショックだった。

「勝手だけど……もう、トオルにやられる泉を見たくないんだ…」
沈黙が広がる。

ゲホッ、ゲホッ…
泉が体を震わせて、咳き込んだ。
どう考えていいのか、分からなかった。

今までのアキラがしてきたこと…
アキラが自分にしたこと…
彼らと自分がしたこと…
そして、アキラのことが好きになってしまったこと…

(アキラが…私を…)

レイプという言葉は、考えたくなかった。
卑劣な行為……しかし、その時には間違いなくそういう状況だったのだ。
(アキラとトオルに、レイプされた……)
そんな事をされたというのに、自ら受け入れて二人との関係を続けてきた。
自分自身にも、嫌気がさしてくる。
アキラにも、トオルにも、そして自分の中にもある醜い部分。
泉は様々なことから目をそらしてしまいたかった。

「わたし…」
彼のことが怖い、と改めて思う。
しかしこんな状況の中でも、アキラに強く惹かれている自分を自覚してしまう。

(どうしよう…どうしたらいいの…?)

「許してくれ、なんて、都合が良すぎるよな…」
アキラが泉を見た。
泉はアキラと視線が合うのさえ、怖かった。


「泉のこと……すげえ好きになった…」


その言葉に、泉ははっとして顔を上げた。
アキラはマジメな目で泉を見つめていた。その目には苦悩が浮かんでいた。
「いや、前から…好きだったんだ……だから…」

「アキラ……」

本当は全てのことを忘れて、泉はアキラの腕の中に飛び込みたかった。
「どうして……どうして、こんな、関係なの…?」
泉は涙が溢れていた。
「ゴメン…ほんと…許されないよな…こんなのって…」
アキラの瞳の奥が、赤く滲んでいた。
「すげえ後悔してる…最高に後悔してる…、卑怯だよな…オレ…こんなこと、言う資格なんてないのに」

「アキラ……」
目の前にいるアキラを見ていると、泉は全て許したくなってきてしまう。
彼とこの関係になってから、自分がどんなに傷ついても傷つけられても、惹かれてしまう予感がしていた。
それが怖かった。

アキラはため息をついて、前に向き直る。
「オレも3人で会うのは、もう無理だ」
暖房が効いた車内は暑いくらいなのに、泉は緊張で震えていた。
「今日、それをトオルに言おうと思ってた」
「……」
泉は言葉が見つからなかった。
気持ちの整理ができない。

――― 重たい沈黙が流れた。
時々泉の鼻をすする音が車内に響いた。


「もう、……オレと会えない…?」

「え…?」
泉はアキラを見た。
彼と会えなくなるという選択肢を、何よりも一番に怖れていた。
首を横に振る。
「そんなこと…言わないで…」
泉はアキラに近づく。
「何でだよ…、オレのしたこと…分かっただろ?」
泉は更に首を振った。
「だけど…会えないなんて……嫌…」
「泉…」
アキラは泉を見た。
視線が唇へ移る。
アキラは体を引いて、想いを振り払うように泉から遠ざかる。

(こんな、なのに…あたし…アキラのことが好き…)

「これから…」
「……」
泉の手がアキラの膝に触れた。
「アキラは、あたしと…どうしたいの?」
「…泉…」
泉はアキラをしっかりと見つめている。

(分からないけど…、今の気持ちは…あたし…)

「アキラは、あたしのこと…これからどうしたいの?」

二人の顔が近づいていく。
唇が触れそうになったとき、泉が体を引いた。

「言葉で、言って…今までのこと、言ってくれたみたいに…これからのこと…言って…、アキラの気持ち…教えて…」
窓ガラスは真っ白に曇っていた。
泉は自分の座席の方に戻り、アキラの方を向いた。
アキラは自分のあごに手を当てた。
ため息をついて、やっと口を開く。
「今まで…随分いい加減なことしてたと思う、こんなどうしようもないオレだけど、今は……」
アキラの声が少し震える。
泉の緊張が高まる。

「今は……、泉のことしか考えられない…」

アキラは腰を浮かせて、まっすぐに泉を見た。
「オレのこと許してくれとは、言わない…、だけど…オレは泉と付き合いたい…
オレだけの、泉に…なって欲しい…」
そう言うとアキラは下を向いた。
「今までのようなことは、絶対しない…オレ、変わるから…」
「ホントに?」
泉の言葉に、アキラは顔を上げて頷いた。
彼が自分より年下なのを、泉は改めて感じた。
「こんなあたしなのに…いいの…?」
アキラは頷く。

「二人に、色んなことされた体なのに…いいの?」

「…ごめん、泉…」

アキラは泉を抱きしめた。
二人はコートを着たままで、抱きしめ合った。


キスした。
そっと唇が触れ合うだけの、キスをした。
「言ってくれて…良かった…」
泉がアキラの耳元でささやいた。
「今までのこと…、あたし、考えないようにしてた…」
「…ゴメンな…」
アキラは泉の髪を撫でた。
「こんな状況でウソみたいだけど、あたし…アキラのこと好きになってた…」
「泉…」
泉はアキラの背中に手を回して、ぎゅっと握り締める。
「なんかめちゃくちゃだよね……何だか、全てが」
「…ゴメン…」
「アキラは……エッチしなくても、あたしのこと好きなの?」
「うん…」
頷いた後、アキラが頬を泉の頬にくっつけた。
泉はアキラの体温を感じた。
「しなくても、いいの…?」
「したいけど…泉がイヤなら、我慢するよ…」
「そうしたら、他の子とする?」
アキラは泉の体を揺すった。
「しないよ、バカ」


「雪…」

泉は窓の向こうに目をやった。
いつのまにか外は雪が降ってきていた。
「んん…」

ケホケホッ

泉は咳き込む。
「風邪…、大丈夫?」
「うん…」
「送ってくよ」
アキラが車のエンジンをかけなおした。
「積もりそうだな」
「そうだね…」
泉は指で窓ガラスをなぞる。
大粒の雪が次々と舞い降りていた。
側道の木々はうっすらと白くなり始めている。
海は静かに、空からの小さな来訪者を受け入れていた。


突然の雪で、都内は渋滞していた。
泉はアキラの隣で、ずっとドキドキしたままだった。



『あー、トオル?』

「おぉ…何だよ、お前ら…勝手に盛り上がってよー」
トオルが左肩に受話器を挟みながら、タバコに手を伸ばす。

「一緒にいるのか?泉ちゃんと……今」
トオルはそう言うとタバコに火をつけて、煙を吸い込んだ。
アキラの声は遠い。
『送ってきたよ。家まで』
「泉ちゃん、大丈夫だったか?」
トオルの肩を、女の指先が滑る。
「ねえ、だあれぇ?イズミちゃんって…」
甘ったるい声がアキラの耳元にも届いているはずだ。
『なんだよ、もう誰かいんのかよ』
アキラが言う。
「ああ、まーな…。ちょっと、おまえ離れろって」
髪を黄色に染めた派手な少女が、ふくれながらトオルのタバコを横取りする。
少女は裸のまま、ベットに寝転んでタバコを吸いだした。
『改めてかけなおそうか?』
「あぁ、いーいー、気にすんな。それよりも、今日は何だったんだよ」

『……』

アキラは言葉を選んでいるようだった。
トオルは既に大体の状況を理解していた。

「お前ら、できちゃったんだろ?」
トオルが先に口を開いた。
『…まあ、簡単に言えばな』
アキラはトオルの察しの良さがよく分かっているので、すぐに観念した。
「なーんだよー。お前独り占めすんなよー。いつからなんだよー」
『いつからでもねえよ。オレ、泉に対して、マジだから』
アキラの口調に、トオルは決意を感じた。
こうなったアキラは絶対に頑固なのを彼は知っている。

「…わかったよ。っんか、釈然としねーなー。って、…ま、…しょうがないか」
『悪いな、トオル』
「…大体状況は飲めたよ。また今度聞かせろ」
トオルの足元に女がじゃれついている。
トオルのペニスを出して、ペロペロと舐め始めた。
「じゃあな、またな」
トオルは早々に電話を切った。


泉は何人かの女のうちの一人だったが、それでもトオルにとっては一番のお気に入りだった。
雰囲気が清純なくせにいったん行為が始まってしまえば、普段の姿からは想像ができないほど乱れる彼女。
泉自身もそのことを恥じていたようだ。
恥じながらもどこまでも乱れるそのギャップが、トオルにとっては魅力的だった。

(アキラか……)

二人でセックスしていたのにアキラに持っていかれるとは、
…トオルのプライドは少し傷ついた。

(でも、お似合いかもな…)

トオルは冷静に考える。
(泉ちゃんの中、……良かったのになあ…)
泉と会ったりエッチできなくなるのは正直寂しかったが、アキラのことはよく分かっていた。
それに、泉のことも。

「潮時、か……」

自分はといえば、何かにひたむきになるようなタイプではないのだ。
……多分一生。

 

   

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