私は、線路沿いの手摺にもたれながら、暗い空を見上げていた。
今にも雨が降りそうな午後だった。
すぐ足元を山手線がすれ違っていく。
少し遅れて、彼がやってきた。
きちんとした服装に、一見真面目そうに見える眼鏡をしていた。
相変わらず、人を警戒させない容姿。
人を寄せる温和な雰囲気の中に、本当は毒を持っている男。
「今日は、あったかいな」
トオルは眼鏡を外しながら言った。
私たちはどちらからともなく公園に向かって歩き出した。
「電車で来たの?」
私はトオルに聞いた。
「そうだよ。こんな時間なのに、原宿は混んでるよな」
3月の割にはあたたかな日だった。
トオルと少し離れて歩きながら、私は閉じたままの傘を握り締める。
「あのね……、トオル…」
私はなんて言っていいのか、分からなかった。
トオルは私の方を振り向くと、笑った。
いつものように優しい笑顔だった。
「あそこ、座ろっか?」
人気の少ないベンチへ、私たちは腰を下ろした。
遠くで楽器の音が聞こえる。
多分トランペット。それも演奏するのに慣れていないようだ。
トオルはタバコを出して、火を点けた。
今日はラッキーストライク。
いつもバラバラの銘柄を吸っている。そんなところもトオルらしかった。
「アキラから、聞いたよ。泉ちゃん」
「…うん…」
トオルから電話がかかってきて会うことになったものの、私はどうしていいのか分からなかった。
ただ『外で会いたい』と、トオルに言った。
「アキラのこと、どう思ってるか教えてよ」
固い声でトオルは単刀直入に聞いてきた。
時々見せる、冷酷とも思えるトオルの一部分が少し顔を出す。
「あたし…」
トオルは煙を吐き出した。
こちらを向いて私を見る目は、既にもう優しい。
「アキラのことが、好きになったの…」
「うん」
トオルが頷く。
「うまく説明できないし自分でもなんとも言えないんだけど…、アキラへの気持ちって、もう変えられない…」
私は淡々と言った。
「オレのことは、好きじゃなかった?」
トオルが言う。
私はトオルを見た。
左耳にしている二つのピアスが光る。
私は自分の舌先に、あのピアスの感触を思い出す。
「トオルに感じる“好き”とは、…違うの…」
こんな関係になった最初の方、私はトオルに惹かれていた。
いつしかその気持ちに私は怯えた。
それはトオルに感じる怖さ以上に、自分自身が堕ちる怖さだったのかもしれない。
言葉にすると、今の自分の気持ちがはっきりしていくのが分かった。
「………」
このちょっとした沈黙が私の体に痛いくらい刺さってくる。
細い針のような感触。
優しい彼の出す独特の雰囲気。
トオルはタバコを投げて、足でつぶした。
私の方を見ると、にっこり笑う。
微笑むと、本当に可愛らしい顔になる。
「行こうか…泉ちゃん…」
「じゃあ、もう会えなくなるな」
「…うん…」
並んで立つと、トオルは案外背が高い。
いつもアキラと一緒にいるので低く見えてしまうが、顔は小さいし全身のバランスは良かった。
「今までのこと、怒ってる?」
トオルは言った。
「ううん…」
私は首を振った。
こんな天気でも、公園の芝生は目覚め始めた緑の匂いを辺りに放っていた。
「色んなことしちゃったけど…オレは泉ちゃんのこと、すごい気に入ってたよ…」
改めて二人きりになると、以前トオルにときめいていた頃の気持ちが少し甦る。
弟みたいな甘えたがりっぽい可愛らしいところが、私は好きだったのだ。
「アキラと、付き合うんだろう?」
「…多分…そうなると思う」
トオルは両手をズボンのポケットに入れていた。
「ごめんね…トオル…」
「なんだよ、そんなこと言うなよ」
トオルは笑いながら言った。
「オレってこういうの、苦手なんだよな」
恥ずかしそうに、下を向いて笑った。
彼と会うのもこれが最後かもしれないと思うと、切なくなってくる。
今まで3人での関係を断ち切れなかった自分の迷いの訳が分かった。
だけどあの関係を続けるということ…それはもう無理だ。
やっぱりアキラのことが好きなのだ。
「……」
トオルは足を止めた。
私をそっと抱き寄せると、キスした。
「今の、アキラには言うなよ」
私の頬に手をあてて、髪をなでた。
「それじゃあな、泉ちゃん」
トオルは優しい笑顔で、去っていった。
私は立ちすくんでいた。
どうしてだか、胸が痛かった。痛くて、息が止まりそうになる。
――― トオルの後ろ姿が、離れて行く。
愛しかったことを、体の奥で思い出す。
柔らかいトオルの唇の感触が、今…私の唇に、残っている。
もう、会わない。
雨が降り出していた。
真っ直ぐ家に帰って、自分の部屋でぼうっとしていた。
確か、トオルに誘われたのは初夏だった。
そのまま、強引にトオルの部屋で二人に犯されたのだ。
はじめは怖くて、だけど、すぐに私は快楽にのめりこんでしまった。
あの夜のことはあまり思い出したくなかった。
もう、随分前のことのような気がする。
あんなに気持ちがいいのは初めてで、私は自分から求めてしまった。
…その後の二人は、すごく優しかった。
私は彼氏が二人いるような錯覚をおこしていたのだと思う。
3人でのあの行為さえ…もう昔のことみたいだった。
携帯が鳴って、私は我に返る。
「もしもし…」
『もしもし?泉?』
「うん」
私の心を動かす声が、受話器の向こうから聞こえる。
『今、家?』
「そう」
『これから、会える?』
まだ6時を回るところだった。
「大丈夫…、家で待ってたらいい?」
『もう結構近いから、外に出てて』
「わかった…」
「ごめん、雨降ってたんだったな」
私が助手席に乗り込むと、アキラは言った。
あの雪の日以来、アキラと会っていなかった。
「飯、食う?」
近くのファミレスに入った。
バイトの店員が高校の同級生で、私たちをじろじろ見ていた。
「今日、トオルと会ったよ」
私は言った。
「うん」
アキラはジャンバーを脱いだ。
「アキラは、トオルになんて言ったの?」
アキラは私を見て、意味深に笑う。
「それは秘密…、ハラへった」
つい先刻トオルと別れて切ない気分だったのに、こうしてアキラを見るとだんだんと立ち直ってくる。
やっぱり、好きみたい…。
「今度さ、いつ会える?」
アキラが言った。
「いつでもいいよ。あたしは…、あ、木曜以外なら」
「ちょっと出かけないか?昼くらいから」
「うん。まかせる」
私はワクワクしてくる。
アキラは、私の…彼氏と思っていいのだろうか?
ファミレスを出ると、雨はすこし激しくなっていた。
アキラは傘を右手で持つと、左手で私の肩を抱き寄せた。
「……」
これだけのことで、私はドキドキしてしまう。
アキラは傘を持ったまま、助手席のドアをあけてくれた。
スマートな仕草だった。
運転席に座るアキラに、私は手を伸ばす。
アキラは私の手をすぐに握ってくれた。
少しずつで、いいと思った。
今は急ぎたくなかった。
大切な部分をほとんど持っていない私たちの、心に重ねる時間は…ゆっくりでいいと思った。
それでダメになるなら、…きっとダメなんだろう。
体以上に交わりたいもの―――
私たちはそれを求める。
そして進んでいこうと、決めた。
~「心に薔薇の赤、両手に棘を」~
終わり
2009/2/9 修正&加筆
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