選択の化学の授業が終わり、蒼組と葵組の生徒たちはそれぞれの教室へ戻って行く。
「楓香」
謙介が楓香を呼びとめる。
「……」
立ち止った楓香は、謙介にどんな顔をしていいのか分からなかった。
他の生徒達は皆出てしまい、実習室に残っているのは楓香と謙介の2人だけになる。
「教室、戻らないと…」
「気にするな。先生には、佐藤に適当に言ってもらうように頼んでおいたから、…お前、昨日何があった?」
誰もいない実習室はシンとしていた。
謙介の抑えた低い声と静寂が、楓香の緊張を高めた。
「…昨日…、取り乱して、ごめんなさい…」
「耀と何かあったんだろう」
「………」
昨晩も楓香へ何度も電話があり、メールでも耀は謝ってきた。
今朝、教室でも楓香に彼は謝っていた。
その姿はクラスにいた他の生徒たちに目撃されている。
もちろん謙介にも。
「ちゃんと説明しろ」
謙介の声の固さに、楓香は一瞬ビクンとなる。
「昨日の放課後……」
昨日何があったのかを、ポツリポツリと楓香は話し始める。
しかし謙介へ衝動的にキスしてしまった事については、触れられなかった。
「………」
「………」
話を聞いた後も、謙介はしばらく黙っていた。
重すぎる沈黙が楓香には辛かった。
実習棟は教室から離れていて、専門授業を受けているクラスはこの時間、周りには無かった。
呼吸さえ聞こえてしまいそうな静寂。
「…ホントにバカだなお前は」
謙介の声は冷たかった。
背の高い謙介の、楓香を見る目つきは普通にしていても見下しているように見える。
「分かってないよな、楓香は。ただでさえ男はお前の見た目に寄って来るのに、お前は無自覚で隙だらけだろう」
「………」
謙介の言葉は楓香を責めていた。
「この前の満井の件で、懲りてないの?ホントにバカだよな。
松庭が下心無しでお前に近づいてると思ってるのかよ。そもそも松庭に限らずお前に男が近づいてくるって、下心があるに決まってるだろう。
…お前本当に分かってないのか」
「でも、耀は…」
言いかけて、楓香はハっとする。
確かに耀には気を許してしまっていたと思う。
謙介に責められても仕方のない事だとも思う。
「……まあ、しょうがないか。分かるわけないよな、お前がいいのは顔と体だけだからな」
謙介の口から『顔と体だけ』という言葉を久しぶりに聞いた気がした。
呆れたような謙介の様子。それは楓香の心に傷をつける。
「せいぜい気をつけろ。……もうオレを巻き込むなよ」
謙介は楓香に背を向け、教室を出ようと一歩踏み出した。
「待って!」
楓香の大きな声に、謙介は意表を突かれて振り向く。
「バカバカって…、…確かに私はバカかも知れないけど…でも!」
「………」
「ケンちゃんだって同じだよ!」
「はあ?」
謙介の眉間にしわがより、眼鏡が動く。
「ケンちゃんだって…、私と変わらないじゃない!」
「何なの?…お前。楓香とオレが同じだって?」
謙介は楓香に向き直り、露骨に嫌な顔をした。
「………」
楓香は謙介を強く見つめ、一瞬呼吸を飲みこむと声を荒げた。
「学年末テスト……、私、ケンちゃんを抜くから!」
「……何言ってんだよ」
怪訝な顔から、いつものように人を見下したような表情に変わる謙介。
「そしたら、もう絶対私の事、バカにできないでしょう?」
「お前、自分が何言ってんのか分かってるのかよ。オレを抜くって…現実にできると思ってるのか」
「分からないじゃない!そんなの…」
「は?できるわけないだろう。そうだな…。もしできたら、お前の言う事なんでも聞いてやるよ」
呆れた眼差しを楓香へ向け、謙介は笑った。
できるわけない、という言葉を、楓香は首を振って払う。
「忘れないでよ…。何でも言う事聞くって言った事」
楓香は謙介を睨んだ。
こんな風に強い目を、彼へと向けた事は今まで無かった。
楓香は走った。
謙介にバカにされた事は悔しかった。
しかしそれ以上に、キスの事を嫌悪しているような彼の態度が辛かった。
キスを通して、自分の事を拒否されているような気がした。
(あんなキスでも…)
考えると涙が出てくる。
(ケンちゃんとした、初めてのキスだったのに)
高校生活が終われば、学部は別々になってしまう。
当たり前のように学校で彼の姿を見る事さえ、もうできなくなってしまう。
(もう、最後になるかも…)
何かあるといつも楓香を馬鹿にする謙介。
それは確かに当たっている部分もあるのかも知れない。
それでも楓香は謙介を見返してみたかった。
無理だという事は承知だった。
それでも、少しでも彼に近づきたかった。
「え、今日、たかみんのとこに行くの、キャンセルすんの?」
髪を明るく染め直してショートカットにした陽菜は困った顔になる。
いつもどおり、ランチを紅組でとっていた。
「たかみん、楓香が来るの楽しみにしてたっぽいのにな~」
たかみんと言うのは陽菜の彼氏の友人で、放課後に集まって遊ぶ予定になっていた。
「ごめん、…急で…。実は私さ…」
「ん?」
楓香の神妙な様子に、陽菜も愛美も思わず構える。
「学年末試験、トップを狙ってみようと思って」
「ええ!」
予想外の楓香の発言に驚いて、2人とも一瞬引いてしまう。
「どうしたの?急に…!トップ狙うって…何か事情でもあるの?」
楓香の並々ならない決意を見せるその姿に、愛美もどう言っていいのか分からない。
「別にもうクラス分けも無いんだしさ、学年末なんて、適当にやり過ごせばいいんじゃないの?」
陽菜が言った。
愛美も続ける。
「まあ、普段のテストよりはかなりみんな油断してくるとは思うから…、楓香なら上位を狙えるとしてもさ…、あいつがいるじゃん、楓香の彼氏」
「左近王子か」
「左近、高校入ってからずーっとトップじゃなかったっけ。あいつプライド高そうだから、学年末だからって手、抜かないよね」
「結局この3年間、誰も左近王子を抜けなかったもんね~」
「うん」
愛美と陽菜の言おうとしている事は分かった。
楓香が頑張っても、謙介がいる限り1位を取るなんて事は無理だという事だ。
「無理かも知れないけれど…」
楓香はため息をついた。それでも決意は固い。
「自分の限界までやって、ダメだったらもう後悔もないだろうし」
「楓香、今更何で彼氏と張り合うわけ?何かあったの?」
陽菜が納得のいかない様子で楓香を見る。
「…ケンカしちゃった…」
「……」
2人は楓香と謙介がケンカしたという事以上に、やっぱり付き合っていたのかと思った。
楓香から謙介の話が出る事は無く、学校にいる時はもちろんの事、放課後や休みの日にも一緒にいる様子が全く無いからだ。
「やっぱり、…左近と付き合ってたんだ?」
陽菜が素直に聞いた。
「付き合ってなんか……ないよ。仲がいいわけでもないのに…。ケンちゃんとは上手くいかない事ばっかりだよ」
(『ケンちゃん』)
楓香から出た『ケンちゃん』という言葉に、陽菜と愛美は顔を見合わせる。
「どうせなら、最後ぐらい…ケンちゃんをぎゃふんと言わせたい!」
「ギャフンって…あんた」
楓香の言い回しと、謙介が負かされる姿を想像して、愛美は思わず笑ってしまう。
しかし楓香は真剣な表情で言う。
「いや、マジだよ。私。ほんとにマジだから」
「でも1位ってスゴイ事だよ?そりゃあ私たちと違って楓香は頭いいけどさ…、でも1位だよ?そんな、意地にならなくても…」
陽菜は絶対無理だという口調で、楓香に諭す。
「決めたの。できるとこまでやってみる!」
楓香の決意は固かった。
「笹原さん、どこに行くの?」
仲条が楓香に声をかける。
「あ、資料室」
蒼組の教室は他のクラスよりも静かだったが、それでも集中できない。
図書室は遠いため、楓香は教師の承諾を得て資料室の鍵を預かっていた。
そこの方が教室から近い。
楓香が手にしている教科書と参考書を見て、仲条は言った。
「勉強してるの?」
「うん、ここだと集中できなくて…」
「私も一緒に行っていいかな?」
「いいよ、全然」
資料室に入ると、楓香はすぐに教科書を開く。
そんな楓香を見て、恐る恐る仲条が話しかける。
「少し話してもいい?勉強の邪魔になっちゃうかな…」
「ううん。大丈夫。まあ、休み時間に勉強してるのも気休めみたいなものだしね。いいよ、いいよ。何かな?」
前ほどではないが、蒼組で楓香に親しく話かけてくる人はほとんどいない。
唯一の耀と気まずくなってからは、尚更だった。
謙介にああ言われてからは、教室で男子と話をするのすら、楓香は気が進まなくなっていた。
女子から親しく接してもらえるのは、楓香にとっては嬉しい事だ。
「もうすぐ、クリスマスでしょ?いつも笹原さんに頼っちゃって悪いんだけど…」
仲条はデートに着て行く洋服や小物の合わせ方についての話をしてきた。
楓香も服が大好きなので、そういう話は楽しい。
自然と会話が進む。
(いいなあ…クリスマスに彼氏とデートか…)
「笹原さんは、クリスマスはどうする予定なの?」
そう聞く仲条に悪気は無かった。
謙介と楓香が付き合っているという話は有名で、あの左近と楓香がどんな過ごし方をするのか、普通に興味があったからだ。
「1人で勉強するよ~!」
楓香は笑顔で言った。
別に寂しくはなかった。
これまでの楓香の人生、彼氏と過ごしたクリスマスはない。
「左近くんとは…、一緒に過ごさないの?」
「うん…。内緒だけど、本当は付き合ってないんだ」
嘘をつくのも空しいので、楓香は素直にそう言った。
「え、…そうなの?みんなが付き合ってるって噂してたのに…」
「うん。左近君と、私たち付き合ってる事にしようって言ったから…」
「そうなんだ…でもどうして?」
付き合っている事にするという意味が、仲条にはよく分からない。
「左近君も、結構女の子から告白される事が多いみたいで…、普通に考えたら変な話なんだけど、付き合ってる事にした方が、お互いに楽だから…」
(モテ過ぎる人達の発想って…すごい)
仲条は変に感心してしまう。
「みんなには内緒にしてね。左近君に、怒られちゃうし」
「分かった…」
仲条は頷いた。
別に本当は付き合っていない事がバレても、謙介は怒らないだろうと楓香は分かっていた。
相手に関心があるのは楓香の方ばかりで、ずっと一方通行の想いを抱いている事も、痛いぐらい分かっていた。
(頑張って、…ケンちゃんから1位を奪って)
(ケンちゃんに…、キスしてもらおう…最後でもいいから…)
空しい願いだと思った。
1位を取れず、何もできないまま卒業を迎えるような気もしていた。
恐らくそれが現実なんだろうとも思った。
(それでも…)
楓香は、謙介が優しくしてくれるキスを想像する。
時々見せる、謙介の優しい表情を思い出す。
(いつも冷たいわけじゃない…)
それが楓香の気持ちを彼へとつなげてしまう。
(ケンちゃんが、好き……)
ただその想いだけが、楓香を突き動かしていた。
クリスマスも過ぎ、冬休みも過ぎた。
友人からの誘いには時折乗り、気分転換をしながらも、楓香はほとんどの時間を勉強に費やしていた。
2月に入り、試験が近づいてくるとさらに楓香は勉強時間を増やした。
(ケンちゃんなら、こうやって勉強しているはず…)
謙介がするであろう行動を考えて、できるだけ効率の良いやり方で勉強をした。
年が明けてからは、試験対策の反復を何度も何度も行った。
今まで謙介に見てもらっていたが、自分からこんなにきちんと勉強したのは初めてだった。
2年の学年末、楓香は9位だった。
その時に比べると、はるかに勉強をしている。
そして3年の学年末試験は、既に進路も決定しているため、高校生活の中で最も緩い、形式的な定期試験という空気が定着していた。
楓香が更に上位を狙うのには十分だった。
相手が謙介でなければ――――
「試験の結果、もう貼られてるぞ!」
昼休みに貼られるはずの結果が、午前のうちに掲示された。
(結果、出た………)
実習室でのあの会話以来、結局謙介とは話をしていない。
それ以来、楓香は怖くて、謙介をまともに見る事もできなくなっていた。
(どうしよう……)
この日まで、必死で勉強してきた。
高校生活の残りをこんな風に過ごすのかと、陽菜や愛美にもさんざん言われても、楓香は意志を貫いてきた。
(ダメかも知れない…)
足は重かった。
一歩踏み出すたびに、震えているのを自覚する。
掲示版の前では既に発表を見た生徒達が盛り上がっていた。
「笹原さん、…すごい!!」
「顔も頭もいいなんて、笹原、マジでスゲーな」
(え…)
自分の名前が話題になっているのを聞いて、楓香の期待が高まる。
(もしかして…)
人だかりの後ろで、楓香は思い切って顔を上げる。
掲示版の右端から、成績上位者の名前が並べられる。
(あ……)
そこにあった名前は――――
『左近 謙介』
見慣れた、そして一番見たくなかった名前が、一番右にあった。
そこを見ただけで、楓香は目を伏せてしまう。
(ああ、 ……やっぱりダメだったんだ…)
ケンちゃんに言う言葉が無いよ…
もうこのまま、卒業して離れて行くんだ…
(結構、頑張ったんだけどな…)
謙介の顔を思い出し、視界が涙でにじむ。
やっぱりダメだったんだという言葉が、何度も自分の中で回った。
楓香の目の前が真っ白になっていく。
「えっ…!」
「ちょっと、笹原さん!」
眩暈がして、楓香はその場でしゃがみこんでしまう。
掲示版の前にいた生徒達が、突然倒れた楓香を取り囲む。
「大丈夫?笹原さん!」
「誰か、先生呼んで!」
(ああ……ダメだったんだ…)
大き過ぎる失望に、潰されそうだ。
周りで自分の名前を呼ぶ声が遠ざかっていった。
「楓香!」
楓香へと伸ばされた腕。
その腕が謙介だったらいいのにと、楓香は思った。
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