「楓香、もう夜だよ。起きて」
「あ……」
薄暗い部屋。
そのまま謙介のベッドで楓香は寝てしまったのだ。
謙介は楓香の隣で、一緒に横になっていた。
目の前に彼の顔があった。
「何時…?」
楓香は目をこすって、謙介の部屋の時計を見ようとした。
「8時」
「お母さん帰ってこないの?」
楓香はまだ制服のままだった。
「今日は親父と大阪に行ってる」
「…ケンちゃん、今日1人なの?」
「ああ」
「……そうなんだ…」
このまま朝まで、謙介の部屋にいたいと楓香は思う。
だが明日も学校だったし、楓香は外泊をした事がない。
「ケンちゃん…」
楓香は謙介に手を伸ばす。
拒まれるなら、それでも良かった。
謙介との時間は楓香にとって貴重で、そして儚い。
届かない事は分かっていた。だからこそ、手を伸ばした。
「………」
楓香の予想に反して、謙介は嫌がらなかった。
楓香はもっと謙介に近づく。
そのまま、謙介の首筋に顔をうずめた。
「………」
謙介は何も言わず、楓香の背中に手を回す。
(ケンちゃん…このままでいたい…)
楓香の背に回る謙介の手に力は入っていなかったが、楓香はそれでも良かった。
体温がはっきりと感じられるこの場所に、謙介に拒否されずにこうしていられる事が嬉しかった。
謙介への想いが強すぎて、楓香は辛い。
(どうして、こうしてくれるの…)
ただ体の欲求に任せて、そういう行為をしている時はまだ納得がいった。
こうして時折普通に優しく接してくれる謙介の行動が、余計に楓香を辛くさせた。
そして離れられなくなる。
11月も半ばを過ぎた。
クラス分けされるような試験がもう無い3年は、高校生活の中で一番リラックスできる時期でもあった。
「左近くん、あの」
日直でクラスの女子と一緒に、謙介は職員室から戻る帰りだった。
「何?千葉さん」
「左近くんって、彼女いないの?」
「いないよ」
これからされる話の展開が読めて、謙介は嫌になってくる。
「良かったら、今度一緒に…」
「ごめんね。オレ、今、すごく忙しくて」
「……」
女子が言葉を止める。
「女の子と遊ぶ余裕ないんだ。千葉さんがどうこうっていうんじゃなくてさ」
謙介は愛想笑いを千葉に向ける。
「左近くんは高校最後のクリスマスなのに、彼女とか作る気ないの?」
「うん…ごめんね」
「左近君、葵組以下の女子だと相手にしないからって、私やっと蒼組に入ったのに…」
(それって、君の都合だよね)
謙介は女の思考パターンにうんざりする。
千葉という女子は、確かに蒼組の中では可愛い方だった。
ガリ勉ばかりのクラスには珍しいタイプ。
それでもその中で突出している楓香には、とても敵わない。
「付き合うとかじゃなくても、友達として一緒に出かけるとか…」
(意外に食い下がってくるじゃん、この子)
謙介は鼻で笑ってしまう。
「ごめんね。そうだなあ、笹原さんぐらいの女の子だったら、ちょっと考えるかも知れないけど。まあでも彼女は無理そうだし」
半分本気の、半分全く思っていない事を、謙介はあえて口にする。
「笹原さん!……それは…ちょっと…」
千葉は黙ってしまう。
楓香の存在は特別だ。
それは男子にもそうだったが、女子も彼女を認めない者はいない。
(これいいな、使える)
謙介は千葉の反応を見て、思った。
「楓香!やっぱり私服すごい可愛い~!」
「今日だけだからね…」
楓香の気持ちを秘密にする代わりに、1回デートするという約束を先日、耀としていた。
この土曜日は1日、耀と付き合う事になっていた。
「すごいね、街はもうすっかりクリスマスだね」
「アメリカはもっと凄いよ。去年は楽しかったなあ…」
「写真とか、撮ってないの?」
「あるよ、前の携帯に。今度持ってこようか」
「うん、見てみたい!みんなも見たいと思うよ」
「じゃあ持ってくるよ。楓香、こっちこっち」
クリスマスに飾られた街は、沢山の人で賑わっている。
信号待ちの後、狭い歩道は人であふれてしまう。
「楓香、手」
耀が手を伸ばす。
「ええ~」
楓香は嫌がったが、耀はそんな彼女にお構いなしで、勝手に手を取った。
(こんなのって、本当にデートっぽくって)
(私、初デートなのに)
改めて、自分がこれまで男子と何も無いという事を思う。
(手、繋がれちゃった…)
強引な耀に引っ張られるまま、街のあちこちへ連れて行かれた。
それは嫌な事ではなくて、迷わずに行動してくれるのは楓香にとって楽でありがたかった。
「そこの2人、写真撮らせてもらえないかな?」
ファッション業界風の、若い女性の2人連れが声をかけてくる。
1人は本格的なカメラを持っていた。
「今度、Nっていう雑誌で街角お洒落カップルっていう特集をするんだけど、写真撮らせてもらえないかな?君たちのルックスだったら1ページ使えるよ」
街でも耀と楓香のツーショットは目立っていた。
異国の血が混ざる耀はハーフモデルのようにも見えたし、楓香自身も街でよくモデルにならないかと声をかけられていた。
(耀と2人の写真は困るなあ…)
写真を撮られるという事より、耀と2人というのが楓香は気になった。
お調子者の耀が受けてしまわないか、心配でそっと彼を見上げる。
「すみません、僕もう事務所に登録してるので、勝手に写真とか撮れないんです」
耀はサラっと答えた。
「えっ!やっぱりそうだったんだ!素人くんじゃないよね、やっぱり…」
声をかけてきた方の女性が、残念そうに言う。
「どこの事務所なの?よければ今度うちでも…」
「すみませんけど、今デート中なんで」
耀は楓香の手を取ると、彼女たちを置いて足早にその場を去った。
「耀、モデル事務所に入ってるの?」
耀ならそんな事もありそうだと、楓香は思う。
「入ってないよ。色々面倒そうだし、芸能界興味ないし」
「…よく、そんな嘘をサクっと言えるね」
「でも効果あったでしょ」
濃いグレーが混ざったような独特の茶色の髪を、耀はかきあげて笑った。
「うん、でも確かにそうだね…」
彼の機転に楓香は感心する。
表面上は人に軽い印象を与える耀だが、話すとすぐにその聡明さが分かる。
そして彼はよく人を見ていた。
同じクラスでなければ、楓香が謙介の事を好きだという事は気付かれなかったかも知れない。
(でも分からないな…時間の問題だったかも)
耀の鋭さが、楓香は少し怖かった。
謙介の事を何か聞かれると思っていたのに、彼の話題が出る事も無く、耀との1日は普通のデートで終わった。
(結構楽しかったかも…)
楓香に対して、同等に接して来る男子はほとんどいない。
大体の男子は楓香に気を遣って、誰もが遠慮がちな態度になる。
耀の態度は、楓香にとって新鮮だった。
彼の事は嫌いではない。それでも、今日隣にいるのが謙介だったらと、1日中楓香はそんな事ばかり考えてしまった。
(寒いなあ…)
地面から冷気がじわじわと染み出てくるような、風の無い冷えた午後だった。
12月が近づいてくると、目に見えてカップルが増えてくる。
楓香のいる女子の少ない蒼組でさえ、クラス替え以降2組のカップルが出来ていた。
「笹原さん、今度デートに行く予定なんだけど…。何を着て行ったらいいのか分からなくて。笹原さんに相談したくて」
珍しくクラスメイトの女子から声をかけられる。
楓香はよく教室で雑誌を読んでいた。今も机の上にはファッション雑誌がある。
「そうなんだ!仲条さん彼氏できたんだね!おめでとう!」
女子から話しかけられた事が嬉しいのもあり、楓香は笑顔になる。
(うわ…、笹原さん、やっぱりすごい可愛いっ)
声をかけた仲条も、こんなに近くで楓香の顔を見た事がなかった。
至近距離でニコニコされるだけで、仲条までドキドキしてくる。
「どこ行くのー?仲条さんは何系が好き?」
雑誌を開いて、楓香は彼女と一緒にそれを見る。
少し話をした後、打ち解けた仲条は楓香を憧れの眼差しで見ながら言った。
「笹原さんの彼氏はいいなぁ…。笹原さんすごい可愛いもん」
「別にそんな事ないよ。それに私彼氏いないし」
「ええ!…そうなんだ!…あ、笹原さんなら男子選びたい放題だよね、きっと」
仲条はそう言って納得する。
「選んでないよ~。私、彼氏いない歴18年だから」
楓香は笑った。
「ウソ!!」
こんなにも可愛らしい楓香が今まで誰とも付き合っていない事に、仲条は驚いて声をあげた。
教室にいた男子数名が、そんな楓香たちのやりとりをこっそり聞いていた。
その数日後、当番を終えた楓香が教職員室から校舎へ戻るため、1階の廊下を歩いていた。
外へ出られるように両脇に開きドアがあり、そこで男子が楓香を呼んだ。
同じクラスの満井だった。
学年でも常に5位以内をキープしている、常に蒼組にいる1人。
どこにでもいそうな、典型的なガリ勉タイプの男だ。
「どうしたの?満井くん」
「丁度良かった、笹原さんに用事があって」
「何…?用事?」
楓香はドアを開け、上靴のまま廊下を出た。
花壇とは反対の方、教職員の駐車場へ向かうために簡単な屋根のある通路が作られている。
「笹原さん、付き合ってる人いないんだって?」
「え?…何、誰から聞いたの?」
「この前教室でしゃべってただろ。オレ、付き合ってあげてもいいけど」
「ええっ…?」
(何、その上から目線…!)
普段おとなしい満井の突然の高飛車な言葉に、楓香は面食らった。
「急に何言ってるの?私、別に満井君の事何とも思ってないんだけど!」
『好きじゃないんだけど』と言おうとしたが、真顔の満井が怖くてそれはやめた。
「君、オレの家が何してるか知らないの?」
「知らないよ」
(この人、何なの…)
ジリジリ下がっていると、楓香は壁を背に追い込まれてしまう。
満井の家はHグループの家系で、実業家のみならず親族には多くの政治家もいた。彼は小さい頃から周囲に甘やかされて育ち、学園では目立たないものの、偏った価値観を持つ独善的な性格の人間だった。
「オレが付き合ってやってもいいって言ってるんだから、ありがたく従えよ」
満井は手を伸ばしてくる。
(何??壁ドン?)
眼鏡の奥の、一重の爬虫類のような彼の目に、楓香はぞっとする。
「あのね、ありがたくないし!逆に迷惑だから」
彼から逃れようと横へ一歩踏み出した。
「何言ってんだよ」
満井は意外な力で楓香の両腕を掴んだ。
「やめてよっ…、何っ…」
楓香は満井に狂気を感じて、怖くなる。
満井の顔が近づいてくる。
(やだっ、キスされるっ…!)
楓香は顔をそむけ、全力で彼を避けた。
「痛いっ…!」
勢いよく飛び出して、その拍子に足をひねる。
片手を満井に掴まれたまま、楓香はその場で転んでしまう。
「何やってんの」
楓香が顔を上げると、謙介がいた。
「廊下から丸見えなんだけど、ここ」
謙介は無表情のまま、満井を見た。
「左近……」
満井は楓香から手を離した。
傲慢な満井でも、謙介には一目置いている。
「で、お前は人の女に何してんの」
謙介の固い声。その無機質な響きが、逆に満井を威圧する。
「えっ…」
満井は青ざめた顔で、楓香に視線を向けた。
楓香は謙介の言葉に戸惑い、ただ謙介を見上げていた。
「左近と笹原、…付き合ってんの?」
謙介は返事を返す代わりに、満井を睨んだ。
その凄みに、満井は我に返る。
「くっ……」
満井は謙介を斜めに見ると、慌ててその場を去った。
「何してるんだよ、お前」
謙介は両手を制服のポケットに入れたまま、冷たい目で楓香を見下ろした。
「…ケンちゃん…」
立とうとすると、ひねった足首が痛む。
満井から解放された安心感で、体から力が抜けてフラついてしまう。
「………」
謙介は離れたまま、ただ楓香を見た。
「………」
立ち上がった楓香は、謙介を見ると泣きそうになる。
(良かった…ケンちゃんが来てくれて)
本当はすがりつきたいくらい心細かったが、楓香は堪えた。
歩き出して足首に体重が乗ると、痛みが走る。
「怪我したのか」
「うん…でも大丈夫」
「保健室まで一緒に行ってやる」
「……ありがとう。……満井君の事も」
「………」
楓香はゆっくり歩き出す。
上着を着ていない外は寒く、廊下に戻るまでの距離が長く感じられる。
謙介は楓香の歩みに合わせて、ゆっくりと離れて進む。
彼が廊下へのドアを開ける前に、楓香は言った。
「さっきの…、ケンちゃんの言った事」
『人の女』と聞こえた。
しゃがみこんでいた楓香には、よく聞き取れなかったが、確かにそう聞こえたと思った。
「……お前もさっきみたいな事があるだろ」
「………」
「オレとお前、付き合ってる事にしておけ」
(え……?)
一瞬、楓香は謙介の言葉の意味が分からなかった。
「えっ…」
楓香は謙介に体を向けて、しっかりと彼を見た。
「付き合ってる事にしとけって…。それって…本当は付き合ってないけど、付き合ってるって公言するって事なの?」
謙介の真意が知りたくて、楓香は必死で言った。
背の高い謙介は、お互いに立っていても視線が楓香に下りる。片手はポケットに入れたまま、もう一方の手はドアに触れていた。
「面倒くさいだろ、この時期、…お前も。オレも色々余計な事言われるんだよ」
「でも、…ケンちゃんは」
楓香が言い終わらないうちに、謙介は続ける。
「お前も今日みたいな目に合うんだったら、周りにそう言っとけ」
「でも、つ…、付き合わないんだよね?付き合ってる事にしておけって、どういう事?付き合うふりをするって事なの?」
表情を変えない謙介に、楓香はすがるように言った。
『お前とは付き合わない』と、宣言されたような気持ちだった。
「付き合うふりもしないよ…面倒だろ。ただ付き合ってるって事にしておけばいいだろう」
「付き合わないのに…?本当に付き合うわけじゃないのに?」
好きなのに、本当は付き合いたいのに、と、楓香の心は叫ぶ。
それが喉まで出てきているのに、楓香は声にできない。
謙介は呆れたように、楓香へと向き合った。
「お前、今日、満井に何された?」
「あ…」
「そもそも、楓香が隙だらけだからじゃないのか」
「……」
『楓香』と名前を謙介が強く言うときは、いつも何かを念押ししたい時だ。
楓香は先程の事を思い出して、動悸が激しくなる。
(ケンちゃんがたまたま来てくれたけど、あのままだったらどうなってたんだろう…)
思い出したように足の痛みが疼く。
楓香は謙介から目をそらす。
謙介は子どもへ諭すように言った。
「オレと噂になるのが嫌だったら、松庭に付き合ってもらえば?あいつならホントにお前と付き合うんじゃないか」
「ケンちゃんっ…」
楓香が顔を上げると、謙介はドアを開けた。
廊下へ入ると 歩く音さえ響いて、楓香は何も言えなくなる。
(ケンちゃんは私の気持ちを分かってるのに…)
悲しくて悔しくて、それでも好きで、楓香はただ謙介について行くしかない。
「耀はダメだよ…。ケンちゃんと付き合ってる事にするから…」
下を向いたまま、楓香は小さな声で言った。
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